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S県で飼われている生き物

 コンクリートというものを意識して歩いたことはとくにない。意識して歩いたことがあったかもしれないけれどそれすらも忘れるくらい私にとってはどうでもよかった。
 しかしである。S県に出張で行った後に私はいままでどうでもよかったはずのコンクリートを強く意識するようになった。コンクリートが出来立ての黒黒とした色なのか、様々な人が踏みしめ歩いて少し色にくすみが出てきたのかといったことを意識する。例えば、コンクリートに少しざらつきがあった場合は私にはソレが通った後なのではないだろうかと思うのであった。
S県に出張に行った帰りの日、ちょうど金曜日だったのだが仕事終わり私は盛大にバスに乗り間違えたのである。仕事は早朝から昼までのもので、うまくバスに乗り駅まで行くことができれば夜には到着し出張終わりの晩酌を楽しめるはずだったのである。しかし私は、大いに行き先を間違えてしまい、あろうことかその間違った行き先をあっているものだと過信し、うとうとと寝ていたのである。
 目が覚めた時には全く見知らぬ名前のバス停の名前が出ていた。慌ててバスから飛び降りる。が、都心にいたはずの私だったが、今私が立っている周囲には名も知らぬ適当な野菜たちが植えられている畑が一面に広がり、その畑との隙間のように家がぽつんぽつんと立っているだけであった。反対側のバス停に走ってゆき、次のバスを確認する。
 次のバスは三時間後だった。私は絶望した。どうしたものかと思いスマホで現在地を調べるが都心までは徒歩五時間ほどかかるようであった。
 出張終わりの晩酌の時間が夢のようにシャボン玉がはじけるように散った。仕事の疲れもどっと出てきた。とても不快な気分である。
 タクシーを呼ぶと楽しみだった晩酌の三倍以上は金がかかる。私は考えることをやめてトボトボと歩いた。歩いても最悪終電には間に合うだろうし、間に合わなかったらどこかのホテルにでも泊まろうと考えていた。
 その時歩いた道は車で踏みしめられた土の道で硬かったが、ところどころデコボコしていたり道の端によるとぬかるみがあったりとどうにも歩きにくい道であった。右手側には深緑色の山々が静止画のように固まっていた。風もなく、寒くはないが心は寒かった。
 私は無心で歩き続けた。しばらく歩き続けると一軒の家の前で私は足が止まった。黒い瓦屋根が並べられたこの辺りでは一般的な木造建築であり、縁側には一人の老人が座っていた。別にそこまでは変わらない風景である、あえて言うならば玄関口に置いてある黒のSUVに乗って帰りたいと思ったくらいである。
 しかしその家には妙に違和感を覚えた。五秒間立ち止まってその家を見て私はようやくその違和感に気が付いた。その家の庭には池のように楕円形のコンクリートが敷いてあるからである。
 「このあたりの人ではないようですね。」
 五秒間止まっている間に、縁側の老人が私に声をかけてきた。
「えぇ、すみませんじろじろと見てしまって。」
 ぴっしりとしたスーツ姿にビジネスバックを持っている私は、この田舎では異質に見えたのだろう。
「もしかして、この池のことですかね。」
 老人はコンクリートを指さした。
「そうですね。あのコンクリートはなんですか、なにかあそこに建物でも立てる予定なのでしょうか?」
 私は素直に老人に疑問をぶつけた。老人は少しうれしそうに微笑みながら私に答えた。
「よかったら見ていきませんか?」
 老人の言葉は私を引き付けたが、老人という生体は長話が過ぎると相場が決まっている。この老人ほどでもないが、私の上司もこのように話したい話があるとほほ笑むのだ。そういう時は大体長い話が待っている。
「いえ、大変気になるのですが、私は帰りのバスを乗り間違えてしまいまして、それどころではないのです。」
 そう言って、私は老人に頭を下げた。老人の長話を聞いていたら帰りの宿も取れなくなる可能性がある。
「それはそれは大変ですね、よろしければ駅まで送りますよ。それなら私の自慢の池も見てくれるんじゃないでしょうか?」
 老人は私の思惑を見透かしたように答えるのであった。私は赤面しながらも老人の申し出を受け入れた。
 老人の家の前にある自慢の池、もといコンクリートを近寄ってみたがどうにも出来立ての黒いコンクリートにしか見えない。黒いコンクリートには「トマレ」とカタカナで書かれている。老人の奇妙なコレクションかなにかだろうか。
「よく見てください、この池には凹凸があるでしょう。これが美しさを評価すべき点なのです。東京のコンクリートは汚いものやバランスが悪いものが多いですからね。」
 老人はそう言いながらもコンクリートの上に立ち、片足でトントンとコンクリートの池を踏み鳴らした。一体この老人はなにをしているのだろうかと訝しんでいると、一瞬「トマレ」の文字が揺れ動いたように見えた。
「なかなか動いてくれないんですけどね、今ちょっと動いたでしょう。トカイラインシロヘビです。ご存じでしょうか?このあたりですとたまにコンクリートの上をはだしで歩いている人がいたりするのですが。」
 老人は「トマレ」の文字のことを「トカイラインシロヘビ」と称した。老人の話は続き、トカイラインシロヘビにはそれぞれ名前があり、太郎、次郎、三郎という凡庸な名前がついていることが分かった。私の知っている場所ではコンクリートの上をはだしで歩いているのは大抵が訳あって靴を履くことのできない人物である。
 私がよほど困った顔をしたのを見て思ったのか老人は「トマレ」の前までやってきた。
「信じないというのも無理はありません。トカイラインシロヘビは最近では自分自身がトカイラインシロヘビだということを忘れてそのまま標識になってしまっているのもいるくらいですからね。こうして育てていかなけばそのうちすべてが道路標識になってしまうでしょう」
 そうして老人は「トマレ」の「レ」の先を撫でゆっくりと表面をなぞっていき、なにかを掬うようにレの中に手を入れていった。
 そうしてもう片方の手でレの鋭角部分のところを触り一気に持ち上げた。
 老人の両手には一匹の立派なシロヘビがだらりとこちらに姿を現した。鱗のないすべすべの蛇であった。ヘビと私が称することができたのは今まで見てきた生き物の中でヘビが一番近かったからである。
「これが三郎です。あまり動かないですけどね。どうです触ってみますか?」
 老人はそう言いながらヘビを私の元に持ってきた。私はおそるおそる触ってみるとザラリとしたコンクリートの感触がした。ヘビは私が触ったことにも動じず首をもたげたままなにもこちらを見ることもしなかった。
「これがトカイラインシロヘビです。道路標識の中に住んでいるんですよ、これはホームセンターで買ったものですが、野生のトカイラインシロヘビも結構いるんです。たまにコンクリートの手入れをするだけで育ってくれるので楽ですし可愛いですよ。」
 その後私は、お茶をいただきながら老人が撮ったトカイラインシロヘビの様々な標識を見せてもらった。「ハシルナ」や「チュウイ」といった見たことがあるものから「トマル」「ミルナ」といった謎の標識も見せてもらった。特に老人の中では「ミルナ」がお気に入りらしい。
 老人は妻に先立たれ、楽しみがなにもなかったがトカイラインシロヘビを飼いだしてからは生きる希望が湧いたらしい。
「私はね、この子達をより先に死ぬわけにはいかないんです。この子達が最後になんの標識になるかを見届けたから死にたいんです。」
と熱弁していた。
 そうしてだいぶしばらくの時間がたったのち私は老人のSUVに乗せてもらい、駅まで送ってもらった。駅に着くまでの間もトカイラインシロヘビたちの様々なことを聞いた。そのころには私は車に乗ったことでリラックスしてうとうとと夢見心地で聞いていた。
「つきましたよ。起きてください。」
 次に目を覚ました時には私は駅のロータリーの前にいた。
「すみません、寝てしまいました。」
「いえいえ、良いんですよ。今日は私の話を聞いてくれてありがとうございました。またトカイラインシロヘビのことが気になったら来てください。」
 私と老人はそうして別れを告げた。
 帰りの電車に乗り、家に着くと時間はまだ余裕があり晩酌ができそうな時間であった。私は帰り道歩いているところでふと、目の前にある「チュウイ」とコンクリートに薄汚れた白色で書かれた文字を見た。その前に立ちトントンと足踏みをした。
 一瞬、「チュウイ」が揺れたような、揺れなかったような、そんな気がした。

<a href="https://www.ac-illust.com/main/profile.php?id=UzQPe3Ut&amp;area=1">AiBON</a>さんによる<a href="https://www.ac-illust.com/">イラストAC</a>からのイラスト

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