「好きなこと、楽しいこと」と「稼ぐこと」の相性の悪さについて
最近の楽しかったこと。
小豆を煮てあんこを作ったこと。
まぁまぁの草むしりをしたこと。
甘酒の発酵の様子を確認すること。
一週間ほど重石をしていた桜の塩漬けを外に干したこと。
わたしの楽しいことは、だいたいそんな感じ。
かなり自己完結で、自己満足で、誰の役にも立たなくて、必須でもない。
わたしの好きなことや楽しいことは、稼ぎに繋がりにくい。
桜の塩漬けを作るのはすごくワクワクするけど、桜の塩漬けをたくさん作って売りたいわけじゃない。
桜の塩漬けを使った何かを誰かに食べてほしいわけじゃない。桜の塩漬けの作り方をレクチャーしたいわけじゃない。
ただ、自分がやってて楽しいだけだ。わたし対桜のかかわりをしているだけであり、ここに人間が入り込んでくる余地はない。わたし対桜。桜がひょうげんしてくれたものを、わたしは受け取って塩漬けにして、それを空に見せている感覚。強いていうなら、太陽に向かって「太陽のエネルギーで咲いた桜でわたしなりの表現をしたよ」と伝えてるだけ。
ここに「稼ぎ」を入れたくないこと、入れにくいことには、もうとっくに気づいてるし期待もしてないのだけど、色々と腑に落ちたのでメモしておく。
お金というものは、人間が回している。人間の多いところでよく回る。異論はないだろう。
ということは、シンプルに考えると、その逆である「人間の少ないところ」はお金が回りにくい。悲しいことでもない。そりゃそうだ、という仕組み。
なるべく自然の中で、人と関わらずにいるのを願うということは、お金の稼ぎにくさを半分受け入れるということ。
なぜ半分かというと、「えいっ」と気合いをいれて一旦稼ぐ仕組みを構築することは、可能だから。戦争もない、身分の差もない。「えいっ」と気合いを入れて稼ぐ仕組みを作ったあとに、安心して好きなことをやるのも可能だ。だから半分。
こういう人は、どうやったらいいか。好きなことで稼ぐのを諦めたらいいのか。今のところの最適解は、好きなことをめいっぱいやるためにコスパよく安定的に稼ぐこと。徐々にサイドFIREみたいな状態を目指して、必須の労働時間を減らしていくこと。そして数十年かけて仕事になったらラッキーだなぁ、でもならなくてもいいなぁ、と思うこと。そんな感じである。
少なくとも、逆算して積み上げるようなものじゃない。それは自然じゃない。植物は芽が出るかも、咲くかも、どんな大きさになるかも、どこを向くかも分からない。ただなるべく上に伸びようと、自然に生きている。
そんなんでいいよなぁ。自分が上だと思う方向に、なるべく伸びてみる。咲けるのか分からない。でも上に伸びたいんだから上にのびる、それで満足。この感じを見習いたい。
生活クラスタの人たち、幸せに生きよう。
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