〜私が理学療法士を目指した理由〜


私は3人兄弟の長男として生まれ幼少期を鹿沼という田舎で過ごしてきました。
小学校の同級生は20人弱、中学校でも30人弱という小さな学校で今では少子化によりさらに人数が減っているとのことでした。
小学校4年生から少年野球をはじめ、父が監督。6年時にはキャプテンという特殊なプレッシャーのかかる少年野球時代を過ごしてきました。私の父は気性が激しい人なのでとても厳かったこと覚えています。しかし、幼少期の経験が私の精神の核となっているのではないかと今は感謝しています。


中学ではシニアリーグに所属し、陸上部と野球、冬はサッカーとスポーツ漬けの日々を送っていました。そのため勉強は全くできず特に数学が苦手でテストで10点台が普通でした。がなんとか高校へ進学できました。


高校では、県内の古豪の高校へ進学し甲子園を目指し寮生活を送りました。
同級生の野球部は30人前後。全体ではおよそ100人。田舎から出てきた私にするとカルチャーショック。先輩怖いし、練習厳しいし、ホームシックだし、人見知りだし先輩怖いし。1年生の夏には県大会決勝まで進むも敗退、2年生では高校名の変更とうい珍事にもあたり校歌がポップでキュートでやたら長いバラードとなる。
この辺りからショートで試合に出始めるがなぜか大事な時期にベトナムへ海外旅行へ行く暴挙。ベンチ入りを逃す。

そして、練習試合前のキャッチボールで野球人生最大の出来事が起きる。K野先輩とのキャッチボール。試合前イライラしていたのか先輩はグラブを構えたところ以外は取らない。必然的に全部僕がボールを拾いに行く。結果、恐怖症となりイップスを発症する。なかなか厄介なもので、ボールを投げようとするこの出来事が頭をよぎる。暴投する怒られるのループにはまる。投げられない。

そこからは荒治療、外野をやらされたり、ひたすら壁当て。結局、少しは改善するものの根治はしなかった。僕はこのK野さんを一生許すことはないと思う。

こう無理をするとどこかに負担がかかり、半月板を損傷し、地元のクリニックにかかり、初めて理学療法士という仕事を知る。同時期にもう一つの出来事があった。祖父が脳梗塞になった。症状は軽く麻痺なと症状はなかったが、より理学療法士に興味を持つようになる。結局、高校3年生の時に背番号6番をもらえたことは今後の人生で大きな自信となった上にここで出逢った仲間はかけがえのない財産となっている。
あっ残念ながら甲子園にはいけませんでしたがこの3年は僕の人生の基礎となっています。


やはりここでも勉強ができる方ではないので理学療法の養成校への入学は苦労しました。担任からはいけるとこはないと断言される。しかし、時代は理学療法士が人気の時代ということもあり、新設校の推薦枠があると(生徒会会長してました)迷わずGO!何とか群馬県の専門学校に入学することができました。現在私の母校は潰れましたorz

しかし、入ってからが大変。医学用語に医学知識覚えることが大量にある。
性格的には好きなものは継続して頑張れるタイプなので何とかクリアし、国家試験にたどり着くもまさかの不合格。1年間浪人し(親には感謝)2度目の受験で何とか合格し念願の理学療法士として歩みをはじめたのでありました。


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