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俳句の玉手箱①~忌日俳句と古典に帰る

 忌日(命日を亡くなった人にちなんでいう)の俳句を詠むのは好きです。文人たちの生涯をたどったり、その人の性格や容姿の特徴をよんだり。2020年12月6日に坪内稔典先生のアメーバ・ブログ「窓と窓」に載せてもらった忌日俳句です。11月23日は女流作家樋口一葉の忌日。12月9日は夏目漱石の忌日です。(一葉と漱石のぴったりの画像があって、嬉しくなり、書きだしました。お札を折り紙にしているそうです→漱石ではなくて、野口英世でした。勘違いして、ごめんなさい。ただ、この画像をみて、今日の日記は書けました。折り紙作家ピロさま、ありがとうございました)

薬包紙ラムネくるんで一葉忌

石蹴りの子はもうおらず一葉忌

妻の嘘冬晴れに散り漱石忌

ちょび髭も書生もなき世漱石忌

先生の鞄にも猫漱石忌

 これだけでは、ちょっと短いので、以前に書いたエッセイを加筆・訂正して載せます。俳句と映画について、毎回、テーマを決めて、それぞれからアプローチして書いていました。このエッセイは、俳句雑誌「船団」111号(2016年12月)に掲載されたもので、よかったら読んでください。

~古典にかえる~

 文人(小説家)は、俳句をする方が多いが、映画人は意外と少ないです。少ないというのは語弊もあり、個人や仲間内では詠んでおられても公に発表される方は少ないです。そんな中、古くは小津安二郎監督から、最近では、渥美清まで、映画人たちの佳句です。

   口づけをうつつに知るや春の雨     小津安二郎

   椿咲きひとりの旅の波がしら      五所平之助

   セーターの始めての赤灯に揺れて    夏目雅子

   鯨の背のぐいと海切る去年今年     成田三樹夫

   赤とんぼじっとしたまま明日どうする  渥美 清  

 映画と俳句の親和性はというと、案外、高いと思います。一瞬を絵として切り取るということ、余韻を残すということ、読者が何通りにも解釈できるということ。そして、映画は仕事が細分化されているものの共同作業で他者を意識するものであり、俳句も句会を通して他者を意識するものであります。ただ、映画は根本的に動くものであり三次元であらわされ、二次元であらわされる俳句より表現の幅はずいぶんと広くなります。

 今の映画界も俳句界の現状も、師弟制度が崩れていっているところは似ていると思います。映画も昔は大手映画会社に就職し、監督のもとに、助手、助監督という立場で下積みの時代があったけれど、今は個人でも撮れる状態です。コンテスト応募作、クラウドハンテイングなど。誰でも人と資金を調達して監督になれます。

 一方で、若い俳人の間では、師弟制度の名残のある結社に入らず、ネットでの投稿、俳句賞への応募から俳人を名乗る人が増えています。こういった現状は、長い下積みがいらず、人間関係が簡素化される利点はあるけれど、教えを乞うたり、議論しあう場が減るといった憂う問題もでてきます。

 2015年公開された「赤い玉。」という映画のパンフレットに奥田瑛二氏がその問題点を指摘されています。「赤い玉。」は、高橋伴明監督が京都造形芸術大学の学生とともに制作した作品で、スタッフやキャストに京都造形芸術大学の学生を起用しています。

「最近の映画学科の学生たちは昔の映画を観てないことが多いんだよね。だから、学生たちと撮影の合間に昔の映画の話もしなかった。というか出来なかったね。我々の世代は役者同士が集まってもっ昔の名作映画の話などに花が咲くものだけど、それが共有できなかったのがせつない。(略)でも、若い監督で今、第一戦で活躍している人はちゃんと昔の映画も観ているんだよ。要するに、昔の映画もちゃんと観て、なぜその映画が面白いのか、なぜその時代に作られたのか考えない奴はだめなんだってことですよ」

 この古典にかえる、という姿勢は、俳句でも同じだと思います。昔の俳人の俳句を詠んで、考えて、教えを乞うたり、議論しあう場が、師弟制度がなくなりつつあり人間関係が希薄化されている今、減っているのも事実です。ただ、これは、師弟制度の方が場が多かったけれど、個々の意識の持ちようで克服できる問題でもあります。そして、パンフレットのページ末尾には、一年かけて撮影を続けているうちに現場の様子が変わっていくことがつづられています。「人材育成は現場での経験が大事なんだ」と。俳句も同じではないでしょうか。俳人の人材育成は、ある程度の回数の句会での合評が大事だということ、昔の俳人の俳句を詠んで考えたり議論しあうことも大事です。映画と俳句。こういうところも似ているのかも、と思っています。

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#映画と俳句   #みんなの文藝春秋




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