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言語化する=誠意だと思う話

長くもなく短くもない期間お付き合いしていた人から、別々のほうが幸せだと言われた。

正直未だに納得していない。なぜなら、相手が自分の気持ちの言語化をすることが苦手な人で、別れの理由すら言語化できなかったから。

それ相応の理由を言われたら納得するくらい関係性は脆弱になっていたことは私も承知しており、「あぁきっと話を切り出されるだろう」と思いながら会ったので全く驚きもしなかった。むしろすんなりお別れしたいという事実は受け入れられた。しかしその後だ。

なんでそう思ったか?と聞いても、言語化できておらず抽象的な話ばかり。単語単語しか出てこない。考えてきたけど分からなくなったと言う。は?何言ってんだ?

それらの単語をすくいとって、話を汲んで汲んで汲んで、ようやくこういう理由かな?というそれらしき理由は理解できたが、あくまで推測でしかないから本当の理由は分からない。そして、本人が言語化できておらず解ってないので汲んで汲んで「こういうことか?」と言っても、「解らない」としか言われない。そんなの私が解るわけがない。

という一連の流れから私が思ったのは、タイトルにもした自分の気持ちを言語化するということは誠意だという話。言語化できず解らないの一点張りだと、正直こちらも何が何だか解らない。何が何だか解らないと、こちらからも解決案が出せない。そして解らないと言われると、結局私はその程度でしか考えてくれない存在だったのかと思い、全く誠意が伝わってこない。

うまくいかなかった原因が何かを知らないと、お互い改善できない。これは仕事においても同じではないか。

仕事においては、共通言語があるから言語化しやすい。CPAと言われたら獲得単価だし、ここをこうすべきというのが明確だし、共通言語があったり成功事例はGoogle先生が沢山教えてくれたりする。便利な世の中だ。

だけど、人間関係に関してはGoogle先生がいくら教えてくれても各々にこれが良い/悪いと思うところが異なる。言語化出来ていない状態なんて、相手とのコミュニケーションを放棄したも同然なのではないだろうか

ふと考えてみたとき、彼は仕事関連の人との関係性はとても良好だったように思う。しかし、それ以外の友人の話をそれほど聞かなかった。仕事が出来てコミュニケーションが取れても、仕事という枠がない=共通言語がない人との関係性は脆弱なのだろうか。そして過去の恋愛の話を聞いても脆弱なものだった。とても不器用な人なんだとは思っていたが、何となく腑に落ちた部分もあった。

コミュニケーションを放棄すると、人は人のことをきちんと見なくなる。向き合わなくなる。そしてそれは、私も同じだ。自分はその程度だったと思い、心を閉ざしてしまう。
そういうことを今回反面教師的に教えてもらった。そういう意味でも、それに限らずとも、私を成長させた分非常に良い恋愛だったと思う。

これから彼にはその言葉を根気強く汲んでくれる人は現れるのだろうか。若干それに関して気がかりではあるが、私も苦手な言語化をすることの大切さ、言語化してきちんと伝わるように伝えることは、いかなる人間関係においても肝になることだと学んだ。

最後にフォローをすると、彼のことが嫌いになったわけではない。とても不器用な人だったんだなと思う。まだ日は浅いが、私は向き合い抜いたという気持ちが強く全く未練がない。だから、きっと前を向いて歩けると思っている。

いくつになっても人から学ぶことばかりだ。

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