もしもボックスなどない
2023年、人生の岐路に立つことが多い一年だった。
とはいえ、たいていのものは私が勝手に生み出してしまったものだったが。
周りの人たち、平気な顔をして人生を歩んでいく人々が、どのようにしてその道を選んでいるのか、どうやって正しい選択肢を選び取って生きているのか、不思議で仕方がない。
私はいつだって誰がどう見ても不正解の方に助走をつけてダイブしてしまうから。
地球の歩き方ならぬ、『人生の歩み方』が欲しい。蛍光ペンでマークしながら、付箋をつけながら、重要な局面は何度も何度も読み返してじっくり長考してから進みたい。
でも現実はそんなこと、できるわけもなくて。
結婚を夢見た恋人に別れを告げたこと。
大阪を出て名古屋へ来たこと。
愚痴を言うくせに、転職せずに精神をすり減らしながら会社に居座り続けていること。
ほんとうにこの選択肢が正しいのか、いつもわからずに不安になる。
また私は間違った道を歩もうとしているのではないだろうか。ずっと悩み続けている。
別段、苦しいことばかりだけではない。
名古屋に来て新しく出逢えた人たちもいる。この土地が自分にあっているなとも思うし、この年末には突然、愛知は某所に推しができた(この話はいつかまた)。
新居は大阪で住んでいた頃よりも広く、しかし家賃は安い。ゆかいな仕事仲間と、酒を飲み愚痴を漏らし歌をうたい飯を食らう。それなりに楽しい思いはしているのだけど。
でも、だからこそ、なのかもしれない。
常に「ほんとうにこのままでいいのか」と声が問いかけてくる。私の中でだけ聞こえているその声は、たいていは父親の声をしている。
結婚をし、子どもを産み、仕事と家庭を両立する。そういった、「ふつうの暮らし」こそが正義だと彼は信じている。
その考えが旧態依然のものだと、大人になった私は理解しているはずなのに、結局のところその呪いにがんじがらめになってもがいている。
たしかに私はさみしがりやで、誰かと自分の人生を共有して生きていきたいタイプの人間だ。心ゆるせる人たちとひとつのテーブルを囲んで笑いあいたい。人から愛されることに自分の価値をゆだねている。
だから、いつかは家族を作った方がいいのだろう。
父はよく言う。
人生、楽しいことばかりじゃないぞ、と。
実際のところ、人生は辛く苦しいこともたくさんある。仕事なんかせずに、ほんとうは自由に生きていきたいし、物語と歌とうまい飯があればそれでいい。
だが現実はそうはいかず、どれだけ嫌でも毎日会社へ行かないといけないし、卒業文集に書いた「しょうらいのゆめ」は捨てて社会に迎合しなくちゃいけない。
だからこの言葉は事実だと思ってはいる。
だけど、今の私はこの言葉だけに囚われて、普通の人生からレールを逸れてはいないだろうかと、そんなことばかり気にかけて生きている。
そのせいで、自分が何を大切にしているのか、何が自分のしあわせなのかもわからずに、急にぶち壊したりしてしまう。本末転倒とはこのことだ。
選ばなかった道のことを、くよくよ悩んでいても仕方がない。自分でちがう選択肢を取った、ただそれだけだ。
私の人生、どこで間違ってしまったのだろう、と悲劇のヒロインになることは容易い。
だけど、もしもボックスのない現実を生きているのだから、自分の選んだ人生にしっかり責任を持って生きていくしかないのだ。
例えそれが、不正解に思えたとしても。
というわけで、冒頭にうっすら匂わせた今わたしが狂っている推したちの歌から、この一節を2024年のモットーにしたい。
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