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Call Me by Your Name

Call me by your name and I'll call you by mine.
「君の名前で僕を呼んで、僕の名前で君を呼ぶ」

 慌ただしく月日が過ぎた。学生という鎧を脱ぎ捨てリクルートスーツで青山を闊歩し、新橋で酒を煽る日々に別れを告げる。研修の名のもと、存外あっさり手に入れた憧れの一人暮らしも、この週末で終わりだ。

 2018年4月、私は一ヶ月だけ東京で暮らしていた。新入社員研修のため、会社で借りたウィークリーマンションに住んでいた。
 ずっと実家暮らしで、早く独り立ちしたいと願っていた私にとって、この一ヶ月はあっという間に過ぎた。

 最後の夜は、映画を観に行く。
 そう決めたのは東京で暮らす最後の週に差し掛かった頃のこと。
 東京でのこの暮らしが終われば、再び実家に戻ることになり、夜にふらふらと出歩くこともできなくなる。最後の悪あがきとして、映画館のレイトショーを経験しておきたかった。

 そんないきさつで、「Call Me by Your Name」のレイトショーのチケットを購入した。

 その映画を知ったのは見知らぬ誰かのツイートだったと思う。
 日本公開が1年ほど遅れていて、やきもきしていたころ、ちょうど卒業旅行で利用した海外便の機内配信サービスで見つけた。
 日本語字幕はなかったけれど、会話劇メインというほどのものでもなかったので何とかついていけた。というより、彼らの愛をなぞるには言葉など必要なかったという方が正確かもしれない。
 その後まもなく日本での公開が決まり、そこからは先述のとおり。

 はじめて繰り出した夜の映画館は、雑多な繁華街の商業施設ということもあり、想像より賑わっていた。
 エンドロールが終わり切るまで見届け、がやがやと騒めく群衆の声を遮るように、Apple Musicでサウンドトラックを流しながら帰路に着いた。

 ひとりきりの部屋に戻り、イヤフォンからスピーカーに切り替えてサントラに浸りつつ、残してあったウィスキーをちびちびと嗜む。
 ベッドに座り込み壁にもたれながら頭の中で映画のシーンを反芻していると、映画館で観ていた時はそうでもなかったくせに、お酒の力を借りて感情がぽろぽろと涙の形で溢れ出してきた。


 当時の私は、本当は物書きになりたかったのに、という思いを燻らせていた。

 小学生の頃はノートやキッズ携帯のメールの下書きフォルダに、中高生になればガラケーでHTMLタグを手打ちして作ったホームページに、大学生ではpixivかぷらいべったーか同人誌に。
 媒体、一次/二次創作かの違いはあれど、人生の大半を創作と一緒に生きてきた。
 単純に物語を創るのが好きだった。そう書くと大袈裟かもしれないが、人と人の関係性を描いていく作業が好きだ。ファンタジーの世界であれ、異国が舞台であれ、同性愛や異性愛にこだわらず、キャラクター同士の恋愛……正確には感情の揺さぶりを好んで書いていた。

 ただ、それを生業にするほどの勇気と自信が持てなかった。
 趣味で書いていた小説はあくまで趣味レベルのものだし、二次創作を長くやっていると趣味として物語を作っている人たちのクオリティの高さを嫌でも目の当たりにする。
 そして致命的なことに、私は文章を書くことを愛すると同時に憎んでもいた。いつも原稿は締め切りのギリギリまで白紙のまま放置されてしまうし、頭の中で組み立てたプロットのまま、ただの妄想として消費されてしまった物語が数えきれないほどある。
 ——高校のころ壮大な夢小説のプロットを立て、友人に語り聞かせていたことがあった。数年経ってその当時の友人と振り返った時、一向に作品に落とすことをせずただ物語を語り続けるその様を「琵琶法師」と名付けられたのには笑ったが、実に言い当て妙だ。

 そういう有様だったので、私は書き手として生きることを放棄し、何の関係もない一般企業の営業職に就職した。


 一ヶ月の研修の間、物語を創ってきたこのハンドルネームではなく、自分の本名が印刷された名刺の束を見てようやく現実を思い知った。
 私は物書きにはなれない。おそらく今までのようにどっぷりと創作に浸かっていられなくもなる。あれほど時間が余っていた学生時代でさえ、原稿を進められない私が、会社員と二足の草鞋を履けるとは到底思えなかった。

 創作から一時的に離脱せざるを得ない状況なのだと、ぼんやりと理解していた。


 そんな状況の中で、東京生活最後に見届ける物語に「Call Me by Your Name」を選んだ。
 スクリーン一面に映し出される、北イタリアの美しい風景と残酷なまでに純粋で切ない物語。ひとりの青年とひとりの男性、エリオとオリヴァーの忘れられないひと夏の思い出。
 エリオが心を開いていく様子から、ふたりの関係性の終着点までをていねい且つうつくしく描いていくこの映画が私の感情を捕まえて揺さぶり続ける。
 私がまさしく創作する上で描きたかった理想の物語がこの映画の中にあったのだ。

 これから東京を後にし大阪へ戻り、社会人という長いトンネルを進み続けることになる。いつか物語を生み出すパワーがなくなって、何も創り上げることができなくなる日がくるだろう。
 その時には、この日に見届けたふたりの恋の終わりを再び辿ることにしよう。

 そうすることでまた、ひとつの物語を抱きしめられるのだから。

 結局、映画館のレイトショーに行ったのはこの映画が最初で最後だった。
 あのあと実家に戻り、しばらくして家を出て大阪で一人暮らしを始めてもレイトショーに行かなかった。仕事で疲弊しきった体で夜遅くから、2時間ものあいだ物語に集中するのは至難の業だ。それにNetflixやAmazon Primeがある。家でごろごろスマホを片手に映画を観る楽しみ方も覚えてしまった。

 あれから5年が経ち、想像した通り創作からは離れてしまった。
 社会人になってからも1〜2冊の同人誌を出しはしたが、あとはTwitterで軽く妄想を垂れ流すだけ。最近はそれさえしていない。
 ただ、今でもむかしに創り上げた物語の世界を訪れることはできる。
 仕事で疲れたとき、何か現実から目を逸らしたいとき、過去の自分が書き散らかした物語に触れる。成長して解釈が変わった部分もあれば、好みが一貫している部分もあり、タイムカプセルのように記憶を掘り起こしては懐かしむ。

 そして、がむしゃらにこなすだけだった仕事と距離感も、少しずつうまく掴むことができるようになってきたこの頃。この映画を自宅で眺めながら、また創作を少しずつ始めていきたいなとぼんやり考えている。

#映画にまつわる思い出

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