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犬 中勘助著 (20 最終回)
※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。
前回のお話
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20
ある夜彼女はそうっと穴をぬけだした。そしてまっ暗な路をクサカのほう へひた走りに走った。二度めなので迷うこともなかった。彼女は自分の足音 をさえ恐れた。僧犬は弱ってはいるが欲望や嫉妬はその四肢に魔物のような 力を与えるであろう。 彼女は無二無三に走ってようやく渡渉場のところまできた。胸が裂けそうに苦しい。足が萎えてへたへたとつぶれそうになる。
「ここを渡ればひと安心だ」
彼女は一生懸命気をひきたてて渡りはじめた。岸に近いところは静におどんでいたがまんなかへ出れば出るほど流が強くなってくる。彼女は鼻先を水面に出して必死と泳いだ。併し気ばかりはあせつっても足の力がぬけて充分に水を掻くことができない。それで目あてのほうへまっすぐに行けないばかりか時々ぶくりと頭までもぐる。彼女は見る見る押し流された。流れはますます早く、水は深く、川は広くなってゆく。精も根もつきてしまいそうになった。で、思わず喘ごうとしてがぶりと水を呑んだ。彼女は最後の努力をした。嬉しい! 岸が近づいた。流もゆるくなった。とうとう泳ぎついた。が、そこには適当な足場がなかった。彼女はやっと前足をかけても後足をあげることができない。そしてもがいてるうちにまた押し流される。そんなことを何度もするうちに気がぼうっとしてきた。
「ああ」
彼女は無茶苦茶に泳ぎついてははなれ、泳ぎついてははなれした。そのう ちどさりとなにかにぶつかった。脇腹に強い痛を覚えた。それは天の佑であった。大きな木の根が水の中までのびだしていた。いい按排にそれに身を支えられて辛うじて這いあがることができた。そこで気が弛んでよろよろとした。そしてずぶ濡れのままへたりと倒れてしまった。
「私はこれなり死ぬのかしら」
そんな気が夢のように頭に浮んできた。そうして死にそうに喘いでいた。 そのうちふと彼女はかすかに遠吠の声をきいたように思った。そしてはっと起きあがった。恐怖が彼女を力づけた。彼女は見当をつけて、密生した藪を斜につっきって本道へ出ようとした。彼女は全身疵だらけになったほど困難したがともかくも目的を達した。僧犬のけはいもなかった。
「まあよかった。もうすぐクサカだ。それからガーズニーへ!」
彼女の胸は喜に躍った。案内知った路を勇んでかけだした。なにはともあれ僧犬をまいてしまうまでは走らねばならぬ。で、わざとクサカの焼け跡へははいららずにぼかぼかした草地を横ぎって、町から大きく迂回している街道の先のほうへ出ようとした。そして匂をまぎらすためにそこいらにごろごろ眠っている野飼の牛の間を縫うようにして行った。そうしたらひょっくりと、 いつぞや異教徒が祭をしていた榕樹のあるところへ出た。星あかりにすかしてみたら新しい堆土のうえに大きな石がおいてある。
「ああ、ここだった」
と思った。それから森のほうへ行こうとした時に彼女は突然恐しい勢で走り 寄る足音と、ききなれた僧犬のうなり声をきいた。彼女は立ち竦んだ。それ と同時にぐわっととびかかるけはいを見て危く身をかわした。彼女は鼻のsa先で猛りたつ彼の疎な毛が針みたいに逆立っているのが見えるような気がした。
「どこへゆく」
僧犬は憤怒にふるえながらいった。そのとき彼女にはもう恐怖の影もなかった。ただ氷のような絶望があった。
「どこへ行くのぢゃ」
噛みつきそうにいう。彼女は黙っていた。
「わしは知っとるぞ。おのしは彼奴のとこへ行くのぢゃ」
彼はさも憎そうにいった。
「これ、血迷わずとようきけよ。あの男は死んだぞよ」
「え」
彼女はぶるぶるとした。
「嘘です。嘘です。あなたはひとを騙すのです」
「嘘ぢゃというか。彼奴はこのわしが殺してやったわ」
「お黙りなさい。あの人はあなたなんぞに殺される人じゃない。さあ、いつ、どこで、どうして殺しました」
僧犬は「いいい」というような、いやな、絞り出すような声をした。嫉妬が
こみあげたのだ。
「馬鹿めが。毘陀羅法で咀い殺したのぢゃ」
彼女はぎょっとした。半信半疑になった。呪法の力は知つている。
「そのびだら法とはなんです」
「知らずばいうてきかしてやる。屍骸をやって人を殺させる法ぢゃ。名さえ
知ればど奴でも殺せる」
「それごらんなさい。あの人の名も知らないで」
「彼奴はジェラルというた」
「え、あなたはそれは名じゃないといった」
「ふ、ふ、嘘ぢや。わしは彼奴の名を知ったばかりか現在彼奴を見た。彼奴 は苦行をして居るわしのまえを通ってこの顔に唾を吐きかけおった。おのし のいうたとおりの男ぢゃった。暫して森の中でジェラル、ジェラルと呼ぶ声をきいた。ジェラルという名は邪教徒にあるのぢゃ」
「でもあの人は屍骸なんぞに殺される人ぢやない」
彼女は強情に盾ついた。そうすることが恋人の命を救うことででもあるかのように。
「まだいうか。これ女、ようきけよ。彼奴がどれほど腕前があろうと呪法に は勝てぬぞよ。屍骸には鬼が憑くのぢゃ。逃げもかくれもできぬのぢゃ。まんいち相手に行力でもあって殺せぬ時は戻ってきて呪法の行者を殺す。いずれか殺さねばおかぬのぢゃ。わしは命がけの呪法を行うた。それもおのし故ぢゃ。屍骸は戻ってこなんだ。どうぢゃ、彼奴はどうでも死んだのぢゃい。
それ、これが彼奴の墓ぢゃ」
「え、ではほんとうに……」
「殺したがどうした。切りこまざいても飽き足らぬわ」
彼女はぐらぐらとした。凄しい女の怒に燃えた。彼女は矢庭にとびかかって相手の喉くびと思うところへぐわっとくいついた。僧犬は不意を襲われて仰向に倒れた。彼女はのしかかってしかとおさえながら死物狂に頭をふって喉笛をくいちぎろうとした。そして僧犬がげえげえとかすれた聲を出してはねかへさうともがくのをどこまでも噛みふせていた。僧犬はとうとう息がとまった。ぐたりとしてころがった。彼女は血みどろの口をはなした。そうして恋人の墓石に身をすりつけて悲鳴をあげた。それから彼女は犬にも人間にも通じない獣人の言葉で湿婆の神に祈った。
「濕婆の神様、私をあわれと思召すならば、この身の穢を浄め、今一度もと
の姿にして、どうぞあの人のそばへやってください」
獣人の祈は神にとどいた。彼女に突然五臓六腑がひきつるような苦痛を感じて背中を丸くしてぎゃっと吐いた。わる臭い黒血がだくだくと出た。それは体内をめぐっていた僧犬の血であった。それと同時に彼女はくるくるとまわってばたりと昏倒した。
ややあって彼女は我にかえって立ちあがった。そうしてなにか一皮ぬいだような気のする自分の身体を撫でまわした。それは完全な女の姿であった。 彼女は狂喜の叫をあげた。それは人間の声であった。彼女は湿婆に感謝すべく地にひれ伏した。その時大地がくわっと裂けて彼女は倒に奈落の底へ堕ちていった。闇から闇へ、恋人のそばへ。
大正十二年七月四日
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