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犬 中勘助著 (14)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

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14
 外には鳥の声がきこえた。
「わしはちょっとそこまで行ってくる。そなたは身体が大事ぢゃ。ま少しそうしとるがええ」
 実際彼女は大儀で起きあがる気にもなれなかった。僧犬は鼻の先で草庵の 藁を押し分けて出ていった。彼女はひとりになってしみじみとあたりを見ま わした。自分が畜生になったばかりでほかのものは冷酷にもとのままである。湿婆の像も、水甕みずがめも、みな。ただ脱がされた彼女の着物と、不用になった髑髏の瓔珞ようらくとがちらばっていた。彼女はせめて僧犬がそばにいないことが嬉しかった。そうして底しれぬ悲嘆のうちに綺麗にしんしんと恋の湧き起るのを覚えた。
「あの人は今日たってゆくのじゃないかしら。私はどうしてもあの人がいるような気がする。きっと虫が知らせるんだろう。ああ逢いたい。ひと目なり と見たい。それにしてもこの姿で!」
 彼女は恋人に抱かれたかった。そうしてこれまではまためぐりあいさえすればいつでも抱愛されるものと思っていた。とはいえそののぞみは汚く無惨に塗り消されてしまった。二人のあいだは婆羅門と旃陀羅せんだらよりも遠かった。彼女はもはや穢わしがられる資格さえなかった。旃陀羅の女は万に一つは婆羅門の恋人とならぬとは限らない。すくなくともその肉体は抱愛をうけるに足る形態上の条件をそなえている。今や彼女にはそれさえもなかった。二人はもはや人、畜、境を異にしてしまったのである。畜生道の、混濁した暗黒ななげきが 彼女を圧した。その時がさがさ音がして大きな僧犬の頭がぬっと現れた。そして肩から尻へとすっぽりとぬけてはいってきた。彼は口のなかに含んできたものを彼女の前に吐き出した。それはひどく青臭い二つの丸いものだった。
「身体の薬ぢゃに食べなさい」
 彼女は嗅いだばかりでむかむかする変な物を眺めて躊躇していた。
「魚の肝ぢゃ。辛棒して食べなさい。早うせい、、をつけにゃいかぬ」
 ついぞ見たことのない肝だった。彼女は
「早く丈夫になりたい」
「なにはともあれ丈夫にならなければ」
という気はあった。で、いやいやながら一つを口に入れた。それはぬらめいて渋みのある、こりこりしゃきくした物だった。彼女はあらまし噛み砕いて苦労して呑みこんだ。じっとする噯気おくびが出た。残りの一つはどうしてもたべる気にならなかった。
「では養生にわしがま一つ食べよう」
僧犬はぺろりとなめ込んだ。そうしてそのわる臭い口で彼女の口をねぶった。彼は出来るだけよそよそしくしてる彼女に寄りそって腰をおろして、 顔の向き合うように身体をまげて腹這いながらにたにたとしていった。
「今のは人間の睾丸ぢゃよ。えろう根の薬になるのぢゃとい」
 彼女は吐きもどしたいような気がした。僧犬は平気で話しつづけた。
「わしはクサカの町へ行ってみた。邪教徒の奴めらひどいことをしおった。クサカの者はみな殺しにされて町はきれいに焼かれてしもうた」
 彼女はぎょっとして僧犬を見た。住みなれた町の滅びたことについてもた としえない寂しさをおぼえたし、日頃自分を虐使した主人たちに対しても、そうした場合人が人に対してもつほどの気持はもつことができた。それに反して僧犬は彼女よりは一層完全に犬になっていた。彼はもしもとの彼であっ たならばいかに咀いかつ怒るであろうかと思われるこの出来事について全く よそ事のように冷淡であった。それはただ「食物」についてのみ彼にかかわりのあることであった。
「わしらもここにいては食う物に困ってしまう。もっとも二日や三日は屍骸 を食ってもすまさりょうが」
 彼はその屍骸から睪丸をくいちぎってきたのであった。
「わしらはどこぞほかの町へ行かにゃならぬ。そなたに早う丈夫がつけばええが。あれでじつきに肥立つぢゃろうとは思うが。それにあれはえらい根の薬ぢゃ。そなたは程のうもとの身体になるぢゃあろ。犬の寿命は短いものぢゃ。そのうえわしは年よっとるで、わしらは根を強うしてせいぜい楽しまにゃならぬ」
 あの不自然な出産のあとであるにかかわらず彼女の健康は奇蹟的にすみやかに恢復した。それは所謂いわゆる根の薬のせいもあったであろうが、一つには彼女が人間ではなくて犬であったからでもあった。翌日の午後彼女は空腹に堪えかねて産後の疲れをおして僧犬と一緒にクサカの焼け跡へ餌を漁りに出かけた。彼女は通いなれた道をはじめて四つの足で歩いた。そして太い尻尾をきゅつと巻きあげてゆく僧犬のあとからだらりと尾を垂れてしおしおとついていった。森を出て彼女は町のほうを眺めた。町はあとかたもなくなって此処彼処に余煙があがっている。そうして遙に物の焼けた臭い、特に死体の焼けた一種こうばしい臭いが漂っている。終に焼け跡へきた。ぷすぷす燻る灰燼のなかにまっ黒になった死体がちらばって、それを野犬の群が争って食っている。それらのものは彼ら、殊に僧犬の大きいのに驚いて――彼らは犬にしては最も大きな犬であった――遠くから煩く吠えたてた。それらは彼女たちを自分らと同じ歯や爪をもったお仲間うちとして、人間や他の動物に対するのとは別の、もっと近接した関係、もっと切実な意味に於ての恐怖や敵意を示した。彼女は情ない思をした。僧犬はそんなことには一切無頓着にみえた。 彼には何物もうち消すことのできぬ、何物をも忘れさせる大きなよろこび――彼女 をわがものにしたという――があった。それはそうと現実にひしひしと迫ってくる飢餓は否応なしに彼女を駆ってその不愉快な場所をあちこちと嗅ぎまわらせた。彼女は少しづつの食物を見つけて辛うじて腹をみたすことができた。そこで腰をおろして休みながら後足で耳のうしろを掻きはじめた。僧犬はいう。
「このとおりでとてもわしらはこれから始終ここで餌をあさるという訳にはゆかぬ。どこぞほかへ宿がえをせねば。それでわしの考ではチャクチャのがよかろうかと思う。ええかげんな町ぢゃし、それにここからはまずいちばん近いで」
 彼が同意を求めるように彼女を見たので どこでもかまわない と気のない返事をした。
「あそこに見える森をまわって、それからひとつ丘を越えて、三拘盧舍くろーしゃたらずもあるぢゃろか。そなたにはまんだちと難儀ぢゃろうな」
 彼女は 今のぶんならどうぞこうぞ歩けそうだからこれからすぐ行こうといった。帰るにしてもどうせ歩くのだし、それにあの草庵がいやでならない。で、とにかく行くことにした。

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