犬 中勘助著 (10)
※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。
前回のお話
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10
第六日。夜はふけた。ジェラルはひどく酔った戦友と一緒に天幕の外へ出た。そこで互いに上機嫌で別れをつげたのち彼は従者に命じて客人を見送らせた。彼は戦友の高調子な話し声のきこえなくなるまでそこに立っていた。綺麗に晴れた夜であった。茫漠とした平野に大きな深い空が紺黒に蔽いかかって、地平線に近く片輪になった月が赤くどんよりと沈みかかっている。彼はひとつ欠伸をして天幕へはいった。彼は戦友と重に昨日の狩猟やカナウジの攻略について語りながら徴発した甘蔗酒を汲みかわした。で、蹒くほどではないがだいぶ酔っていた。彼は年はまだ若かったが身分の高い勇敢な騎士であった。そうして今度の遠征にも度々抜群な働をして敵味方に驍勇を示したし、獲物も運びきれぬほどあった。赫々たる功名と戦果は彼の心を此上なく幸福にした。
彼はふとこのまえここに宿営した時に慰んだ娘のことを思い出した。
「可愛い奴だった。つかまえられて螇蚸みたいに跳ねおった。だが己はあとで可哀想になった。そうして帰してやる時ちょっと名残惜しいような気がしたのはへんだった。とにかく可愛い、いい奴だった。自惚れかもしれぬが奴己に惚れたような様子もみえた」
なんだかもう一度あってみたいような気もした。
「ひょっとしてまたここらあたりへくればいいが。併し明日は多分出発せねばなるまい。後続の部隊も大概ついたようだから」
それから彼は退屈な行軍について考えた。そうして最後に狂気と歓呼をもって迎える故国の人々を。死のように静かな天幕のなかで彼は卓子に頬杖をついてぼんやりとそんなことを思っていた。その時彼はなにか人のけはいがしたような気がしたので顔をあげて鎖した入口のほうを見た。
「あれが帰ってきたのかな、すこし早すぎるが」
見ると天幕が内へふくらんでいる。
「酔っぱらってるんだろう。それにしてもうんともすっともいわないのはおかしい」
そこで、ひとつおどかしてやれ と思って
「誰だ」
と怒鳴ってみた。黙っている。いよいよぐんぐん押して入ろうとする。押し倒してしまいそうな勢だ。
「誰だ」
彼は立ちあがって入口のほうへ歩み寄った。そうして鎖しの紐をほどいて顔を出すや否や
「あっ」
といってとびのいた。と、解き放たれた入口からぬうっと変なものがはいってきた。それは確に人間の形はしているが素裸で、全身紫にうだ腫れて、むっとするいやな臭いがする。そしてつぶった目から汁が流れだしている。腐れかかった屍骸なら戦場で見飽きているがこれは生きて歩いている。
「なんだ貴様は。化物か。死神か」
相手は黙りこくって盲滅法に、しかもまともに彼のほうへ、ぎくしゃくぎくしゃくと関節病患者みたいな足どりで寄ってくる。手には研ぎすました小刀を握って居る。ジェラルは覚えず身をひいた。
「何者だ。なんとかいえ」
相手はかな聾ですこしも感じない。ジェラルは広くもない天幕のなかを卓子をまわって二回までも後じさりした。相手は正確に彼の足跡を踏んでひた寄りに寄ってくる。彼は未だ嘗て知らなかった感情――恐怖――に襲われた。彼はこのえたいのしれぬ敵に対してどうしてよいかわからなかった。そのとき偶然手が刀欛にさわったので彼は殆ど無意識に蠻刀をひき抜いた。が、狼狽して相手を梨割りにはせずに、脹らんだ腹をめがけて力一杯に突いた。幸ぶつりと突きとおった。熟れた瓜みたいに柔かった。相手はどさりと倒れると思いのほかすこし刀に支えられると見えたばかりで、前とおなじ歩調で、しかも盤石のような力でそのまま真直に歩いてくる。そのために刀が欛もとまでとおって背中へ突きぬけた。そしてジェラルが刀をぬこうぬこうとあせっているうちに相手は突然痙攣的に右手をあげて小刀をぐさと彼の胸に突きさした。ジェラルはどうと倒れた。そのうえへ折重なって化物の屍骸が。
続きのお話
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