「推しは私の人生の責任をとってくれない」らしい
「推しは私の人生の責任をとってくれない」。もっともだ。
ありがたいことに、私には何人かの「推し」がいて、わたしは彼らがいるから生きている。嘘じゃない。
小学生の頃、将来のなににも希望が持てなかった。でも別に、家庭環境が悪かったわけでも、お金がなかったわけでも、学校が楽しくなかったわけでもない。むしろ、恵まれた環境にあったと思う。私を大切にしてくれる父と母がいて、誕生日やクリスマスはちゃんとプレゼントを買ってもらえて、たくさんのクラスの友達と鬼ごっこをする。十分恵まれていたと思う。でも、小学生ながら「将来に希望がない。大人になりたくない。じゃあ大人になる前にこの世界からいなくなろう。」そう思っていた。
中学生になっても、この考えは変わらなかった。というか、むしろ増した。ここではもう、希望がない、というよりは、身近な大人にクソみたいなやつが多すぎて、「こんな大人を人生の先輩としておだてて生きなければならないんだったら、やっぱり子どものままいなくなりたい。」だった。そしてそんな自分のことを、自分で認められなくなっていた。周りの子たちは、次のテストで100点を取るために目標を立て、「学校の先生になる」「サッカー選手になる」と将来の夢を語る。私は、今のことしか考えられなかった。今を楽しく生きて、それですんなり消えてやろう。いつも頭の片隅にはそれがあった。
転機は、「推し」に出会ったことだった。元欅坂46、平手友梨奈ちゃん。彼女は私の人生を変えた。『君は君らしく生きていく自由があるんだ』『はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの』当時、ほぼ同い年の子がそんな歌詞を歌うことに、衝撃を受けた。もちろん、世間からの厳しい目もあった。それでも彼女はたった1人、グループの最前線に立ち続け、将来の夢を「欅坂46を有名にする」と語った。未来だった。わたしの、一筋の光だった。それで、「とりあえず、彼女がわたしの世界にいる間は生きてみよう」と思うようになった。
彼女に助けられ続け、私はなんとか高校生になる。まだ、「大人への軽蔑」みたいなものはあったけど。高校生になって、新しい推しに出会う。彼は、初めての異性の推しだった。彼の生き方に憧れた。5個上だから、私が高校生の時は十分に20歳を超えていたのに、「大人になりたくない」「大人は信用ならないですから」と言った。顔とか性格とかじゃなくて、生き方がかっこいいな~と思った。そういうことを平気で「大人」の前で言えてしまうことも、アイドルとして完璧でいようとしない、率直で素直なところも。だから、まあ推しと言うよりは、人生の先輩みたいなもんだった。今度は彼に支えられて、高校生を生きることになる。
なんとか、大学生になった。ついに20歳になるフェーズに入ってしまったな…と考えた時期。今度は、友達に勧められて韓国発の日本版オーディション番組を見始め、そこに出ていた一般人を好きになる。彼の好きなところは、純粋で人懐っこく、かわいらしくありながら、影があって、時々何を考えているか分からないところだった。晴れやかで人に黒い心なく接することができる彼は、わたしとは正反対の人だった。なのに、時々全てをシャットアウトしたみたいに、自分の殻に籠ってしまうみたいな。そこはわたしと似ていたかもしれない。だから、またその彼の生き方に憧れた。わたしと似ているところもありながら正反対であり、未来にひた走る彼を、眺め続けた。
20歳の誕生日は、彼を応援しながら迎えた。大学生になっても、わたしは20歳になりたくなかった。20歳と自覚したくなかった。だから、わざわざ周りに誕生日だと言うこともなかったし、家族にはケーキもプレゼントもいらないからと言った。でも、そんな中、唯一楽しみだったのは、彼からのお誕生日メールだった。入会する時にシステムに登録した、わたしの誕生日通りに、機械がメッセージをくれるだけ。分かっているけど、「彼からメールが来るから、誕生日を迎えてもいいかな」そう思った。それで、結局20歳を超えて、今を生きている。
わたしは推しに救われて生きてきた。
もちろん、これからもそうやって生きていくつもりだ。でも、タイトルにもした通り、アイドルは人生の責任をとってはくれないらしい。ていうか、責任をとる、という以前に、こんなただの一般人の人生の責任を負わせる、というのはアイドルからすれば意味わからないことだろうと思うけど。
推し活をしている時は楽しくてしょうがない。わたしの場合は推しの生き方に憧れて、彼らがいるから生きてきた。コンサートが決まると嬉しいし、テレビに出れば忘れないように1週間前から録画を入れる。友達とちょっとおしゃれなカフェに行って、トレカを並べるのだって、そりゃ楽しい。コンサートに行って、ものすごい席を引いて、手を振ってもらえただけでも、5年は生きていける。
でもたまに、「わたし今なにやってんだろ」と我に返る瞬間がある。好きでやっていることだし、見返りを求めているわけでもない。ただの自己満足だと分かっているはずなのに、時々止まれなくなる。お金をかけて会いに行って、グッズを買って、近い席に入ってファンサをもらって崩れ落ちて、それでいつか、「もっともっと」って求めるようになって、止まれなくなる。それで止まれなくなった時、ふと我に返って自分の存在がどこにあるのか分からなくなる。怖い。わたしはこの現象を大体コンサートの後や、直接ご対面した後に起こす。だから、コンサートの後は、わりと1人で悲しくなるタイプだ。
じゃあいつか、この推しが目の前からいなくなったら?そう考えると、とんでもなく恐ろしい。いつか来る現実に、目を背けたくなる。人生の支えがいなくなる、という意味でも怖いけど、わたしの「好き」という気持ちだけ取り残されて、彼らは私の世界からパッと消えてしまうことが怖い。残された好きはどこに向かうのか、その気持ちを落とし込めない。責任をとってくれない、とは「好きという気持ちの責任をとってくれない」ということなのではないかと思う。
今、ありがたいことに新しい推しがいる。彼も、わたしにとって人生の先輩みたいな人だ。何に対しても果敢に挑んで、自分に厳しく、他人に優しい。「ファンのおかげだよ」と毎秒のように口にしてくれる。「ご飯食べたの?よく笑って過ごして」「そばにいてくれてありがとう」と、まるで家族の無償の愛のように、優しくて温かい言葉をくれる。だけど、勘違いしちゃいけない。彼がいつまでもわたしの世界にいる保証はない。わたしは彼の家族でも、知り合いでもない。わたしと彼は、ファンとアイドルであり、彼はわたしのことを何一つ知らない。だから、わたしはちゃんと自分の足で立って、生きなくちゃならない。たまに抱きしめてもらうくらいにして、あとは全部自分で立って、歩いていかなくちゃならない。
散々、わたしにしては珍しく現実思考の話をつらつら書いたけど、これは誰かに対して書いたものじゃなくて、私自身を戒めるために書いたもの。最近は少し、人生における推しの割合を考える機会が増えたから。彼らに救われてここまで生きてこれて、今だって彼らがいるから生きているみたいなもんだけど。ちょっとその割合を考える、ひとつの手段として書きなぐっただけ。これからも生きていきます!