見出し画像

失くした現実

—2—

思い出は、霞んでいく部分とやけに印象が深く残る部分に別れていく。霞んでしまった部分を思い出そうとしても、ぼんやりとした雰囲気と色合いだけが頭に浮かぶだけで、はっきりとした光景や言葉たちは残ってくれない。それとは反対に、深く残る部分は、そのときの風景や感触や表情が妙に記憶の中に縁取られている。それがモノクロのものだろうと、彩色されたものだろうと、それはさほど重要ではない。
僕の記憶は、何処へ行ってしまったんだろう。
医者という立場で考えてみた。僕の記憶の欠落という、健忘症状について。
今、現在の生活においた僕の記憶の欠落は全くと言っていいほど問題はなかった。普段行っている行動、仕事、生活、全てに置いて欠けてしまっているという記憶は見当たらない。いつも見ている風景、いつも話している人間、職業用語、全ては完璧だった。ただし、それは「現在の生活において」という意味だった。
仕事、のことについて思い出してみる。医者という職業に必要な知識は十分に頭の中に備わっている。病気の知識、薬の知識、その他にも様々な必要な物事。病院のメカニズムから治療に至るまで。けれど、僕はどうやってそこまでに「やって来れた」のか。
そもそも、僕はどうやってこの医者という立場になるまでに至ったのか、の記憶がなかった。
医者になるには大学に入り、とてつもない量の勉強を詰んで来なければならない。医師免許が必要だし知識だけではなく、現場の経験も詰む必要がある。でも、僕にはその記憶がなかった。まるで、いつの間にか医者になっていて、いつの間にか知識がついていた、そんな感覚。
そして、生活についてのこと。僕とツグミは結婚していて何事も問題なく生活を送っている。
ただ、それだけだった。
結婚記念日がいつだったか、ツグミと何処で知り合って、いつから付き合い始め、どうやって結婚したのか、そんなことが僕の記憶から抜け落ちていた。今の僕は、ツグミと結婚して何年目なのかすら、思い出せない。それでも不思議だった。たまにふたりの会話に出る思い出話などの記憶。ツグミの口から出る思い出話を聞くと僕の記憶にふと、灯りが灯るように浮かんで来る。その光景が。それが僕が聞いた話を想像して作り上げてしまっている光景なのか、それとも思い出した正確な光景なのか、それはどちらなのか判断は付きかねないけれど。ツグミの左薬指にしているシルバーの指輪は、僕が学生の頃にツグミにプレゼントした指輪だと、「思い出した」のではなく、ツグミが言っていたのを「記憶した」と言ったほうが正しい。そして、それが果たしていつだったのか、僕には思い出せない。

日曜日、僕とツグミは池袋の東武デパートへ向かった。ツグミの新しい結婚指輪を受け取りに行く為だった。僕はそれまで意識していなかった、自分たちのこれまでの生活の記憶などを何かのきっかけで思い出せないかと、ツグミにそれとなく昔の思い出を話すように促してみた。
「だから、私が言ったのを覚えてる?絶対そのほうがいいよ、って。そしたら、その通りだったじゃない。」
そんな風にツグミに何度となく言われてみると、確かにそんなことが過去にあったような気がした。それでもそれは、記憶ではなかった。ツグミの思い出話を聞いた僕の、想像力の結果だった。だけど、それがまるで当たり前のようで、寧ろ、今まではそれが当たり前だった。どうして僕は今まで、昔の記憶がないことに気付かなかったんだろう。指輪のことは、ただのきっかけに過ぎない。僕の記憶の異変に気付かせた何かがあるはずだった。それが何なのか―。
「尚、聞いてる?」
昇りのエスカレーターに乗ったまま、呆然としている僕にツグミは問いかけた。
「ああ、うん。」
僕が曖昧な返事をすると、
「ねえ、どうかした?一昨日から変よ?何だかボーっとしてる。」
とツグミは真剣な顔をして言った。
「一昨日から?そっか、あれって一昨日か。いや、ちょっと気になることがあってさ。大したことじゃないんだけど。」
「また仕事のこと?あんまり仕事のことばっかり考えてると参っちゃうわよ?」
「うん、ごめん。」
僕は笑って言った。そうだ、一昨日からだ。そしてその前兆は、もっと前からあったんだ。
そもそも僕が、この毎日の暮らしに違和感を覚えたのは、ずっと前からだった。「現実感がない」ということだ。時間と時間の区切りが曖昧で、はっきりと意識が出来ない感覚。まるで夢と夢の繋がりがないような、そんな感覚。強い離人感ともまた違う、こんな症状を一体何と呼べばいいのか、専門の医者なはずなのに自分で少々情けなくなる。考えてみると、ここ最近の生活の記憶も曖昧な気がしてしまう。一体、僕の今までは、何処に残されているんだろう。
エスカレーターの昇った先のフロアには、いくつかのブランドのジュエリー売り場が広がっていた。ツグミは一番手前の4℃のカウンターに向かって行って、財布から取り出した用紙を店員に渡した。
「少々お待ちください。」
店員はにっこりと笑うとカウンターの奥へ向かった。僕らの隣では若いカップルがショーケースの中を覗きこみながら、嬉しそうに何かを話していた。僕とツグミにも、そんなときがあったはずなんだけれどな、と僕は記憶を手繰り寄せようとした。無駄だと思いながらも。
「お待たせ致しました。サイズのご確認をなさいますか?」
いつの間にか店員は僕らの目の前に、新しく光った指輪をケースと共に差し出していた。ツグミが、
「あ、そうですね。じゃあ…」
と言って指輪に手を伸ばしたときに僕はふと、
「ちょっと待った。」
とツグミの手を制した。
「え?何?」
驚いたツグミの左手を取って、僕は新しい指輪をツグミのその薬指にはめた。
「結婚指輪は、自分ではめるものじゃない。」
僕がそう言うと、ツグミはきょとんとした後に、
「や、やだ、何言ってるのよ。」
と言って顔を赤くした。それが自分でも思うよりも自然な流れな気がした。こんな風に僕らはやってきたんだろう。指輪はぴったりと薬指に合っていた。

<to be continued>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?