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失くした現実

ー1ー

現実感がないな。
そう呟いた僕のほうをツグミは怪訝そうに振り向いて、
「何?」
と聞き返した。僕は、いや、なんかね、と言ってから手元のコーヒーカップを確かめるように持って、
「何て言うか、最近妙でね。」
と神妙な表情をした彼女に言った。いつもと変わらないコーヒーの味。窓の外の風景。秋空は高く澄み渡り、季節の移り変わりを優しく知らせてくれていた。
「妙って?何が?」
ツグミはまた鏡に向き直して髪をブラッシングする。鏡越しに僕のことを見つめていた。
「うまく説明出来ない。ただの気のせいだと思うけど。何ていうか、時間の区分けが出来てない、って感じかな。」
ブラシを置いたツグミは、また僕のほうに振り向いて、
「意味が分からないよ、それってどういう意味?分かりやすく説明して。」
と呆れたように言った。
「うん、つまりだね。」
僕は少し甘すぎるコーヒーを飲んでから、彼女に言った。
「朝起きてから家を出るまで、という時間があるだろ。それから、家を出てから仕事先に着くまでの時間。そこから昼休みまでの時間、っていうふうにさ。時間の区切りってあるだろ、何か行動をする前提で。その区切りの境界線が曖昧で現実感がないって意味だよ。」
「…よく分からないけど。疲れてるんじゃない?」
そう言うと、つぐみはソファに寄りかかっていた僕の前に座り込んで、
「心配させないでよね、ただでさえあなたの仕事って気持ちが疲れちゃうんだから。これでも私、いつも気にしてるのよ?」
と言って僕の目を覗き込んだ。
「分かってるよ、ありがとう。」
そして僕らは軽いキスを交わして微笑み合う。僕の大切な日常が、そこにあった。何よりも大切な、僕の暮らしだった。

金曜日の夕方だった。窓の外の日は暮れ始め、空の色を黄昏色に染めようとしている頃、僕はその日最後の患者の診察をしようとしていた。カルテを見ると、初診患者だった。問診表の内容を確認して、その症状を頭の中で復唱していた。何はともあれ、患者の話を聞かなくてはならない。
ドアをノックする音が聞こえ、
「どうぞ。」
と僕が言うとナースの付き添いで、その患者は診察室に入ってきた。カルテには24歳、と書いてある。その24歳女性である澤山香織は僕の前の椅子に座るようにナースに促されると黙って腰掛けた。ナースは一礼して、診察室から出て行った。
「初めまして、古谷です。」
僕がそう言うと澤山香織は僕のほうにチラリと視線を寄越したあと、俯きながら頷いた。黒の長袖のTシャツに黒のロングスカートを履いた彼女は、長い黒髪が真っ直ぐに下ろしてあり、全身真っ黒に見えた。目にかかる前髪の隙間から、はっきりとした瞳の力のようなものを感じた。朦朧とした気配などは全く感じられず、僕は質問をした。
「問診の確認しました。眠れない日が続いているということですが、いつ頃からですか?」
「…あの夢を見てから…ずっとです。」
澤山香織は静かにそう言った。短い言葉だったけれど、はっきりとした口調だった。
「あの夢?」
「…先生も見る筈です…全てはあの夢から始まったんですから。」
澤山香織は俯いたまま、そう言って黙り込んだ。僕はカルテにその様子を書き記してから、
「分かりました、その夢の内容を詳しく教えて頂けますか?」
と聞いてみた。妄想、なんだろうかと。その仕草や視線の先を追ってみても、澤山香織の佇まいは僕に統合失調症によくあるプレコックス感を感じさせる気がした。決め付けることは良くない、だからこそ、しっかりと症状を把握する必要がある。僕は彼女の言葉を待った。
「太陽が…逆に沈んでいく夢、です。」
その言葉は、やけに僕の心に響いた。
「それは…具体的にどういう意味ですか?」
僕は思わず困惑した質問をしてしまった。澤山香織は僕の質問に答えず、
「先生は…いつから今の日常を、過ごし始めたか…。」
と言った。
「え?」
「先生。」
澤山香織は無表情に僕を見つめて言った。
「私に適した薬の処方を…お願いします。」

結局、僕は澤山香織に対する適切な診察が出来ず曖昧な診断を下してしまったような気がしてならない。彼女が希望した薬の処方とは何だったのかすら聞けずに分からず、初診にありがちな軽い安定剤を二種類と軽い睡眠導入剤を処方した。それについて、澤山香織は何も異論は唱えなかったが、医者としての正しい診断が出来なかったことについて、僕は帰り道、ずっと気が晴れないままだった。『太陽が逆に沈んでいく夢』とはどういう意味を持った言葉だったんだろう。
何故かその言葉は僕の脳裏に焼きついていた。

「変な顔してる。」
テーブルを挟んで目の前に座ったツグミが頬杖をついて僕のことを見つめて、そう言った。
僕は慌てて、
「え?何が?」
とツグミの顔を見た。
「ぼんやりしてるし、どうしたの?何だか心此処にあらず、って感じ。今日は帰ってきてからずっと。」
「そうかな?うん、今日はね…ちょっと疲れたからさ。」
僕は手元にある夕飯を食べ終えてから、ツグミに差し出されたコーヒーを飲みながら澤山香織のことを思い出していた。彼女は一体、何が言いたかったんだろう。
「なあ、ツグミ。」
洗い物をしているツグミの後姿に声をかけた。
「何?」
「『太陽が逆に沈んでいく』って、どういう意味だろう?」
ツグミは洗い物の手を止めて、僕の方に振り向いて言った。
「何それ?謎解き?」
「いや、そうじゃないんだけど。」
「うーん…。」
何処かから猫の鳴き声が聞こえた。ツグミは少し考え込んでから言った。
「逆に沈む、っていうのは…東に沈むってこと?違うかな…。」
「東にねえ…。」
僕はため息をひとつついてから、椅子に背も垂れた。東に沈む太陽。それだけではやっぱり意味は分からない。もっと澤山香織に具体的に意味を聞くべきだったんだろうか。そう考えている僕に、
「そう言えば、尚。」
とツグミが声をかけた。
「うん、何?」
「新しい指輪のサイズ直し、今日仕上がったって電話あったの。日曜日に一緒に取りに行こうよ。」
「ああ、そっか。うん、行こうか。」
「本当はこの指輪のままで良いんだけどな。」
ツグミは左薬指にしているシルバーの指輪をキッチンの蛍光灯に照らして言った。
「結婚する前からしてるんだからな。もういい加減、新しく換える時期だ、って納得してたじゃないか。」
「そうだけどね。勿論、新しい指輪のプレゼントは嬉しいの。でも何か、名残り惜しい気がしちゃって。」
「そう言ったって、もう…」
僕はそう言い掛けて言葉を失くした。よく考えてみても、その先が僕には分からなかった。
「尚?どうしたの?」
ツグミは心配そうに僕の顔を覗きこんだ。
「…何でもないよ、大丈夫。」
そう、僕にはどうしても思い出せないということに初めて気付いた。その薬指の指輪を僕はいつツグミに贈ったのか、そしてもっと大事なことが思い出せないことに気付く。
僕とツグミは、どうして、一体いつから此処に一緒に居るのかということを。

<to be continued>

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