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恒常的な満足ほどコワイものは無いという話。

先日、ある物語を読んだ。
その舞台の社会は「完全な幸福」を追求し、国や企業による争いなんかも何もない社会を実現している。

その物語の世界では、願えば何でも手に入る世界だ。
苦労することもなければ、危険なことも一切ない世界。
誰もが生活に困らず、充足しきって満足している世界。

はたしてこれが幸せなのか、という話。

その世界では、他人に興味を持つ人が少なくなり、喜怒哀楽も少なくなり、ただぼんやり「生きている」人が増えているという設定だ。

誰かが目標を立ててみても、周囲からは「やっても意味がない」「無駄だ」「十分じゃないか」みたいなことを言われてしまう。

自発的に工夫してみたり、新しいことを考えたり、より高みを目指そうということも無ければ、反骨心や競争心なんてものも生まれない世の中だったとしたら、どうだろう。可能性を想像したり、創造したりすることもない。

現状への満足は衰退の始まりと言う。
常に不満を抱えるというのもどうかと思うけど、現状に満足しないことは生きる活力という意味ではとても重要ではないだろうか。

現状に満足していたとしても、何か目的や意志を持ちながら、そこを目指して少し先の目標を常に持ち、前進している実感を得られるような状態。こっちのほうがよっぽど幸せじゃないかな。きっと脳内からもそんな感じのホルモンが分泌されているはず(笑)心理学的にも脳科学的にも明らかじゃなかろうか。

自分はこうしたいという意志や、こう在りたいという軸を持てるかどうかは、いくつになってもイキイキと働いたり遊んだり夢中になれたり楽しんだりできるんじゃないだろうか。

無目的であったり、学習性無力感からか諦めてしまっていたり、レールの上に乗って過ごしてきた弊害で自分の意志がどこにも無いという人も世の中には多いらしい。

でも、大なり小なり本当はその人なりに生きる(働く)目的や、こうありたいという意志は存在しているはずなんだけど、気づいていないとか意味付けできていないことがほとんどではないだろうか。

自分の好きなことに時間やお金を費やしたい、それでも大いにけっこうだし、家族を守るためとかも大賛成。社会に貢献したい、地域に尽くしたい、誰かの役に立ちたい、いろんなことが考えられる。

そういったことに気づけた時が、本当の意味でキャリア自律をしていくスタートなのかもしれない。いくつになっても遅くないと思う。

冒頭の話に戻るが、誰も困っていない「完全に幸福な社会」というのは、本当に幸福というわけではないのではないか。誰かが困っていたら、それを助けることで得られる幸福感もあるし、誰かに助けられることで実感する幸福感だってある。何かの目標を達成したいと思い、そこに近づいているという実感や、達成した時の充実感もうやっぱり幸福感がある。

ともすれば、なんだか哲学的だけど、満足=幸福では無いのは間違いなさそう。夢もなければ意志もない人が多いと聞いた時、ある意味で現状に満足している状態の人が多いのかなとか思ったり。日本はモノ余りの社会と言われているし、次は精神的な充実が重要になってくるらしい。

人との接点やコミュニケーションが制限されている社会状況。
心理的資本がすり減ってしまっている人が多いのではないかと想像する。

イキイキと働き生活する人が増えるよう、もっと事業を頑張らねばと気持ちを新たにしたのでした。

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