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あの時、心の声聴けた瞬間だった

2020年の年明けからなんとなく調子が悪くなった。



あの時は仕事以外の色んな要素もあったが、電車に乗って程なくすると急に体調に異変を感じ、一緒にいた家族を酷く驚かせた。
駅からタクシーで帰れなんて、後にも先にもこの時だけだろう。
私自身が一番驚いた。何が起きたのか?

その後も一回だけ同じ症状が起きた。数駅電車に乗ったらやはり調子を崩した。
その時は寒さのせいだとも思った。

流行病の影響もありマスク余儀なくされたこともあり、常に息苦しさを感じていた。
一種の過呼吸的なものだったと思う。
あの辺から特に会社内での空気も悪くなり、辛かった。

それでもなんとかだましだまし、過ごしてきた。
が、夏くらいから痺れまで感じてきた。

夏休みになり、外出はなるべく控えめに。
とあったが、自分の誕生日には何かしたいと、近くで予定を立てていた。
楽しいはずなのに、電車に乗るとやはり体調に異変を感じ、フラフラ。
一回だけ、駅の一室で休ませてもらったことすらあった。
(ちなみに感染症でなく、どうやら胃腸炎だったらしい。駅員さんにはかなり気苦労をかけた。
いつかお礼にいきたい)
結局誕生日は寝込んでいた。
救急車呼ぼうかと真剣に考えるくらい危険だった。

そんなことで胃腸炎は落ち着いたものの、体調は常になんとなく悪く、このままではあかんと内科には行った。

だが、検査しても数値等に異常はない。
おかしいでしょう?って言いたいくらい。

もしかしてこれは…と察した担当医は
「心療内科の紹介状出しますよ」
と言ってくれた。

心療内科……

ああ、やっぱりそうか。
と少し自分の中でも理解していた。

とりあえずもらったが、使う予定はなかった。

やはり行くのはハードルが高かったのだ。

その後も電車に乗ることはやはりしんどく、混む電車が苦手なのかと、時間をずらした。
行きは早めに行けば良いが、帰りは難しかった。
田舎なので本数が少ないのだ。どうしたって混んでしまう。
症状は落ち着く気配はない。

休職はしたくない。それすら言えない。怖かった。

だが、本当は休みたかった。
休職ではなくて、リフレッシュ休暇的ものが欲しかったのだろう。
もちろんそんなの無理な話。

なんとかしたいと、上司に相談し、時短勤務を申し出た。

だが、それは出来ないと却下された。

そんな中で、頼りにしていた上司が異動し、
私の中で何かにヒビが入った。

深い闇に一気に突き落とされた心地だった。
そこから職場の人達は変わった。
気のせいと思いたかったが、そのヒビはどんどん広がって、私の体を容赦なく蝕んでいった。

私自身、なんとかここに馴染まなきゃとにこにこと作り物の笑顔を貼り付け、従順なふりをしていた。
が、もう限界だった。馴染めなかった。
自分が見えなくなっていた。

もう、無理だ。
頑張れない。

朝起きたら体が全く動かない日があって、
泣いた。
ふざけてるんじゃないかって思われそうだが、動かすと痛くて辛かった。あの痛みは未だ忘れられない。

休職以外の道があれば良かった。
だって別に働きたくない訳じゃ無い。
仕事は多分好きだったと思う。
やりがいもあった。
だって16年続けられたんだから。

だが、今の職場では何もさせてもらえない。
上司の言動に常に怯え、周りも知らぬ顔。




時短なりテレワークなども出来たらどんなに良かったか。

声を上げて勇気出して上司に助けを求めた。
理解は難しいかもしれないが、寄り添って欲しかった。

だがそれも一度も叶うことはなかった。
私には本当に無関心だった。

休職したら自分の評価は下がるだろう。
家族含め、周りの目もひたすら怖かった。
仕事に戻れない恐怖もあるし、生活はどうなるのか。不安しかなかった。


でも、もういい。
会社、誰かの為、世間体の為に生きなくていい。
自分の為に生きよう。

やや震えながらスマホを取り、心療内科に連絡をした。
初日に面談の上、2回目の時に診断書を書いてもらい、逃げるように休職をした。
今思えば紹介状貰っておいて良かった。
なかったらなかなか予約は取れなかったかもしれない。
と後から気づいた。

全て独断で決めて動いた。

他にも選択肢はあったかもしれない。
他の人にも相談しろと!

ベストではなかったかもしれないが、あの時はベターだった。
それ以外浮かばなかった。
もう時間がなかった。

私の心が完全に壊れる前に動けたこと。




4年前の私。

よく頑張った、自分で決断してえらいねって今の私が褒めてるよ。



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