見出し画像

勤続20年続けられた理由を真面目に考えてみた③

少し間は空いたが、これでラスト。
今年で勤続20年目になったので、振り返る話。


若干長めになるけど、これ以上は書かない為にも書く!

前回はこちら

無事転勤が叶い、新天地では?

始まりはこちら。
最初から結構ハードだった。


「4月から新人になるかもしれないが、どうする?」


直属の上司からの一言。
お局さんと相性が本当に悪くて、毎日苦痛だった。同じ空間にいたくなかった。
それ以外の人達は本当に良くしてくれた。
ちなみにその頃には休んでいた同期は戻っていた。

上司の言葉を要約すると
お局さんが異動しても代わりに来るのは新人…つまりは指導が必要、大変になるけど、いいか?

とのこと。
私は一切迷わず二つ返事だった。
あのお局さんと一緒に仕事する以上に大変なことはない。失礼かもしれないが、紛れもなく本心。
(たまたま私と他にも合わなかっただけ。ただそれだけだった。合う人も多分いる…後にいたっぽい)

たったの1年だったが、ようやく離れられて、
私の心は一気に穏やかになった。
例えるなら見えない檻に閉じ込められ、いつどうなるか分からない不安と恐怖に怯えていた。
解放された感が半端ない。
ちなみに新人さんは私と同い年、感受性豊かで最初戸惑いもしたが、徐々に打ち解けられた。

後に同期も異動になり、メンバーの入れ替わりは大変でもあったが、まとまりつつあった。
ここで頑張って行くぞー!
と思った矢先だった。

「転勤決まったから」

朝礼で告げられた一言に私は言葉も出ず、唖然としていた。
だが、周りは一切驚いた様子ではない。
どうやら知らなかったのは私だけのようだ。
地味にショックだった。
しかも今度の勤務先は今よりローカルなだが駅から近く、相当忙しいとのこと。一気に不安が押し寄せる。
本当かどうか分からないが、本当は私じゃない人が異動する予定だったらしい。
が、忙しい場所だから嫌だと辞退したと言う話だ。そんなわがままが通るのかとちょっと不服だった。少なくとも私に拒否権はなかった。
お局さんがいなくなってからは居心地良い職場だったから、離れがたかった。
別れを惜しみつつも、次の勤務先へ。
2年3ヶ月だった。
濃厚で幸せな時間をありがとう。

4年目夏

案の定忙しくてバタバタしていた。
だが幸いにも同じ時期に配属が決まった新人の方がいて少しホッとした。
上司も同僚達も友好的で、働きやすさはあった。
たまにプライベートでの交流もあり、純粋にそれも楽しめた。
同僚の入れ替わりは多少あったが、一体感があり、フォローし合ったりでやり甲斐も感じられた。ほっとかない精神。
切磋琢磨で良い刺激にもなっていた。
このまま続くのかなと思っていた。

11年目春

異動辞令にやはり驚きを隠せなかった。
今回はちょっと特殊で、いくつかの店舗をサポートする形になる。
簡単に言えば、同僚の誰が休んだらそこに補助に行くスタイル。
ある程度業務経験がないとそれなりに大変でもある。
基本的にやっていることはさほど変わらないが、
やり方などは店舗によって結構異なる。
後は単純に荷物が多いのが大変だった。
週によっては毎日違うところに行くこともあった。

どこに行ってもやや距離は置かれていた。
もちろん嫌がらせとかそういうのはないが、明らかに一線引かれていた。
互いに気を遣っていたのだと思う。仕方ない。
定時になっても他の人は仕事が終わらず帰れないが、私だけは帰された。それもちょっと切ない。

ほぼ同時期に一人暮らしも始めたので、
余計に孤独が深まった。
紛らわす為にSNSや趣味にのめり込んだのはこの頃。
この時、同じような境遇の人がいたので、励まし合えたのもあり、なんとか乗り切れた。

色んな情報は得られたし、複雑な人間関係も垣間見れた。それは貴重な体験でもあった。

長いものに巻かれろと言うが、まさにそれだった。余計なことはしないのがベスト。
学びはあった。
仕事でやりたいことは出来ず、忍耐の期間でもあった。


そろそろ異動かな、ひょっとしてあそこかな?なんて思った矢先、全く予期せぬところに決まった。
今回は3年間だった。
ようやく落ち着けると少し安堵していた。

15年目春

気合いいれて、バリバリ働くぞと思った。
が、直属の上司がどうにも合わない。
にこにこはしてるが、有無を言わさない威圧感が常にあった。YESマンでいないといけない。
意見、反論は認めない雰囲気を醸し出していた。
抑圧される感覚は既にあった。
仕事は出来るが、基本的に一方的に言われるだけ。相談とかは一切ないし、こちらも出来る感じではなかった。
一番びっくりしたのは電話には一切出ないこと。
これは他の職場ではなかった。
電話番とかがもちろんいる訳ではないから、そうなのかと戸惑った。
そして慣れない場所で、慣れない対応が多かった。今までなら大抵上司がフォローしてくれるのたが、一切それはなく、ギリギリにならないと助けてもらえなかった。常に追い込まれていた。
それでも別の上司のさりげないフォローで
なんとかやり過ごせた。
その上司は通常仕事はもちろん、他のスタッフのことも良く見て気にかけてくれていた。
バリバリのキャリアウーマン!
スタッフで慕う方も多く、老若男女問わず人気だった。そんな方と一緒に働けることが支えで励みにあった。憧れでもあった。
ただ、いつ異動になるか分からないと噂はあった。

16年目4月

懸念していた上司の異動はなくホッとしていたが、私の体調が明らかにおかしくなり始めた。
始まりは年明けから。
電車に乗り、異様な気持ち悪さに襲われた。
これはいくつか要因があり、食べ過ぎ(油もの)と車酔い。重たい荷物の多さ。
マスクが苦しく、過呼吸に近い症状が出て、居合わせた家族を心配させた。
それからひと月後、数駅乗っただけで気分が悪くなり、ふらふら状態。
この時は寒さのせいでもあった。休み休み行き、なんとか落ち着いた。

どちらにせよ自律神経が乱れ始めていたのだ。

そして4月。この頃は世界的に流行病が感染し始めて、マスク着用が義務付けられた。
妙な息苦しさが常にあった。
流行病に関して、不安もあったのだろう。だが熱はないからそれではない。
それでも職場いるのも辛く、早退や休むようになった。少ししたら症状は消えた。ただの風邪だったのだろう。

だが夏になると、電車に乗った途端に苦しさが容赦なく襲いだした。
水飲んで誤魔化したり、本読んだり気を逸らそうしても苦しいに支配されてどうすることも出来ない。痺れが始まるともうただひたすらに堪えるしかなかった。

堂々と休める夏季休暇になっても症状は治らなかった。毎年どこかに出かける予定は決めていたが、キャンセルもした。やはり電車に対しての恐怖心が半端なかった。
常に気持ち悪かった。

このままだと私、やばい。
と危機感を覚え、実家に助けを求めに戻ろうとした。
ただその戻るにも、電車に乗るのが必須。
なんとか外に出るものの引き返したり、なかなか動けなかった。
なんとか電車に乗るも、息苦しさと痺れが始まり手すりにしがみつきながら必死に耐えた。

なんとか実家に戻り倒れるように横になった。
病院に行かないと…と思いながら予約する元気もなかった。
力をふり絞り、一番近くの内科へ。
結果は胃腸炎だったらしい。
薬をもらいようやく少し落ち着く。

9月


人事異動の内示が出た。
ついに上司が異動することになった。
まだ体調に不安はあったが、休むことなく通勤は出来ていた。



10月

上司が変わってからは体調もまた悪化した。
発作的な症状の頻度が増えた。
そしてとうとうまともに起き上がれなくなり、適応障害と診断され、休職に至る。
休職中の詳細はこちら。

17年目春

130日の休職のちに復職。
職場も一番近い場所に異動になった。ちょっと特殊な一時的な対処。
同僚達はややドライな感じだったが、
腫れ物に触れるとか、邪険にするとかは一切なく、普通に接してくれた。
きちんと分からないことは教えてもらい、相談も出来る環境で安心して働けた。
上司が理解ある方で、自分の意志を尊重して、時には応援してくれたことが何も嬉しかった。

一応なんとか働ける状態にまでは快復はしたが、
体調を崩すことは少なくなく、行動制限は余儀なくされた。
無理はしないと常に言い聞かせ、再発予防を常に意識して行動していた。
自律神経の整え、パニック発作との向き合い方、
認知行動療法など、自分なりに学び活かした。
youtubeで先人の人達の経験談が大変参考になった。
こればかりは本当にありがたい。
もちろんnoteでも助けられた。
自分との寄り添い方を常に模索していた。
この時期に婚活や引越を検討していたが、やらなくて本当に良かった。

19年目春〜

正式な職場が決まった。
過去にお世話になっていたのもあり、不安はなかった。

だが、恐ろしく暇ではあったし、上司や同僚達の接し方が以前と変化、違和感があった。

一言で言えば冷たい。ドライとはまた違う何か。
今まではお客さん的な対応だったのだろう。
仕方ないと思いつつ少し寂しさを感じた。

仕事の忙しさはほぼなく、常に定時を待つ日々だった。空白の時間がやたら長い。
体は楽だ。だが、全くやり甲斐も充実感も感じられない。これはわがままなのだろうか。
徐々に仕事が出来なくなりつつある自分に危機感も覚えた。
そんなことも考え、転職サイトをぼんやり見つつ今は体調を優先し、ひとまず1年様子を見ることにした。
その間、3年間の病院通いは終わりを告げた。
服用もなくなった。

20年目春



気力体力共にだいぶ良くなってきた。
感覚的に脳が正常に動きつつあるのがわかる。

これから私どうしたい?
と真剣に考えるようになった。
少なくとも仕事辞めて休んでから転職活動…とかはするつもりはない。

結局のところは多分仕事自体はさほど嫌ではないのだ。かと言って向いてるとも思わない。



20年仕事して気づいたのは思った以上に人と関わることが好きなこと。

職場環境、人間関係がある程度整えらればなんとか続けられること。
シンプルな答えだと「運」だと思う。



巡り合わせがけして恵まれた訳でもないが、それでも何かしら支援があったことは大きい。
本当にラッキーだと思う。
どれか一つでも欠けたら、私は仕事を続けられなかったし、もしかしたらこの世に存在すらしてなかったとさえ思う。
別に仕事が生き甲斐とは思わないが、外で…組織で働くこと、繋がりを求めたり貢献すること以外に生きる選択はなかった、知ろうともしなかった。
周りの期待に応えたかった。
今ならもう少し柔軟に考えられるのかもしれない。世界は広い。

100年人生と言われる今日。
まだ半分も生きてない。
20年仕事したからこそ、得られるものは間違いなくある。無駄なんてきっとない。
それをどう活かすは私次第。
これからの一歩踏み出していきたい。



あとがきとお礼

サクッと書こうと思ったら思ったより長くなりました。

20年色々あったけど続けられて良かったです。
これからも頑張ります!
的な綺麗な方向性にはならないのは明らかでした。
そんな単純な話じゃないのもまた事実です。

辛い時期を思い出すと、胸がきゅっと苦しく泣きそうになりました。
それでも、自分の過去を否定したくなく、なかったことにしたくなかったので書き出しました。

誰のためでもなく、自分のために書いた記事ですが、予想以上に気にかけてもらえたのがびっくりしたのと嬉しかったです。
ありがとうございました。

この記事まで見てくださるか分かりませんが、サポートのお気遣いもありがとうございました。
クスッと笑える話ではないですが、こんな生き方もあるんだなと読んでもらえたら幸いです。
個別返信不要とありましたので、こちらにて失礼します。

休職中の話は本にもしてます。
結構赤裸々に書いてます。
少しでもの誰かの力になれば幸いです。

安心の匿名発送。
土日祝含め5日以内に発送します。



何かあればこちらまで。


そのサポートが励みに力になります。1杯のコーヒーが飲める幸せを実感出来ます☺️