読書と平凡な日常1 儚くないしゃぼん玉
どうも、紅りんごです。記念すべき1冊目は、乃南アサさんの『しゃぼん玉』。以下が私が実際にしたツイート。
今読むと結構雑だ。ツイートの方には内容の紹介が全く無いので、補足しておく。
『しゃぼん玉』の主人公は、窃盗やひったくりを繰り返す男。ある日、彼は勢い余って脅迫用のナイフを女性に突き刺してしまう。殺人罪で逮捕されることを恐れた彼は、トラックの運転手を脅迫し、逃走を企てる。しかし、道中で反撃され、どことも知れぬ山道へと放り出される。人里を探して歩く彼が出会ったのは、大怪我をして助けを求める老婆だった。彼女を助けたことにより、田舎で逃走犯と老婆の奇妙な共同生活が始まることになる。
大体こんな内容。最初こそガサツな主人公に共感できないものの、住民や老婆とのふれあいで心を開いていく様子には思わず感情移入してしまう。また、田舎といえば閉鎖的で古い、といった悪いイメージで登場することが多いが、本作品はそれだけではなく、田舎の良さを押し出した描写となっている。
では、読書報告はここまで。お次はエッセイ。今回のテーマは
「しゃぼん玉」
さて、しゃぼん玉といえば何か。私は儚いものの代表、というイメージがある。屋根まで飛んでも、そこで弾けて終わり。詩や小説にはそうしたイメージを伴って登場している気がする。うーん、何というか平凡な回答だこれ。だから、発想を変えてみる。
「もしも、しゃぼん玉が儚くなかったら。」
想像してください、めちゃくちゃ弾力がある、もしくは固い、とりあえず簡単には割れないしゃぼん玉があったらどうでしょう。息を吹いて飛び出したしゃぼん玉は、屋根まで飛んでそのままどこまでも飛び続ける。もしくは、屋根にぶつかってバウンドしてこちらに跳ね返ってくる。少し嫌だけど、これはこれで面白い。でも、これって他のもので代替できる。高く飛ばしたいなら風船を、バウンドさせて遊びたいならスーパーボールを。つまり儚くないしゃぼん玉には、あまり長所がない。可哀想なことに、しゃぼん玉は儚い方が良いことになる。それは日本人の共通認識、の気がする。
なぜなら日本人は、(もしかしたら世界共通かもしれないけれど)長命のものと短命のものに想いをはせがちだ。特に短命なものには、『あぁ、短い人生を懸命に生きている……。』って同情めいた仲間意識を寄せている。何様なんだ、と思う反面、刹那的な美しさに惹かれているのだな、と感じる。セミやカゲロウ、花火にしゃぼん玉、はじめから終わりまで自分の使命を全うして消えゆく姿勢に感じ入るものがあるのだ。特に、日々を無為に過ごす大学生なら猶更……たぶん。
自分の夢を最後まで貫ける人間は多くない。皆、どこかで挫折して諦める。そして使命もないまま長い人生を生きる。中には途中で目的を見出せる人もいるだろう。人は出来るなら脇役で居たくない、輝ける人生を送りたい。だから、空を自由に舞い、刹那的な輝きを見せるしゃぼん玉を儚いと思うと共に、その在り方に焦がれる。
なんて、小さな球体に小難しい屁理屈を押し付けた所で、今日は筆を置く。
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