マイゴジ感想 -戦後という時代が示す戦争トラウマの受容とナショナリズム-


個人と国家が戦争で負った傷と向き合う物語

敷島の戦争は終わっていない。いや、復員兵の戦争は終わっていない。ランボーかな?

敷島だけじゃなく、復員兵や技術士官、工廠や兵器工場で働いていた戦争に関わった全ての人にとって戦争はまだ終わっていなかったからこそ、ゴジラという国家存亡の危機に戦争の延長戦のようなものを感じていたはずです。というかあのゴジラは本土決戦のメタファーだったんじゃないかと思うくらいです。そして特に復員兵は戦争の傷を負っていますから、この作品はゴジラと対峙することで日本が戦争神経症やPTSDから克服していく物語だったと思います。初代ゴジラは戦争や核兵器のイコンなのでそこは原点回帰なんだと思います。

作中では敷島が大戸島での体験からPTSDを患います。夢の中でフラッシュバックしたり、典子に「自分は生きているのか死んでいるのかわからない」と言ったり、海上でゴジラに機銃を撃つのに手が震えてためらっていたりと、敷島はゴジラに襲われたことと、特攻から逃げて生き延びてしまったことに対して死の恐怖と羞恥心に苛まれていますが、これは典型的なPTSDの症状です。PTSDの治療には心理的な安全がまず必要とされていますが、敷島は典子や明子、秋津や野田といった人々によってこの心理的な安全を獲得していきます。そして、戦争やゴジラといった自分の心的外傷の経験を語ることで、紆余曲折しながら自分の心の傷と向かい合っていきました。そのような心の準備を整えた上で、特攻とゴジラという自分を苦しめる対象と戦い勝利します。戦時中には無かった脱出装置が作られていて、それで敷島が生還するというのはカタルシスだけではなく、戦後という時代を象徴させることで、戦後民主主義の成果と価値を表したものだと感じました。

日本という国家レベルで見たときも、特攻という国家と国民が負った傷に対して、「逃げた特攻兵がゴジラに特攻し、そのまま戦死するのではなく脱出装置で生還する」という物語で、大日本帝国や旧帝国軍というトラウマを戦後民主主義に統合していく過程が描かれていました。

戦前批判と戦後民主主義

大日本帝国と旧帝国軍の否定のエッセンスがこれでもかと詰め込まれていて、戦後民主主義が衰退し終焉を迎えているいま、戦後という時代設定がエンタメのトレンドになっているのは偶然ではなく時代の潮流であり、戦後の日本とはどんなものだったのかを分析するのは今の日本人に課せられた宿命だと思います。私は、戦前然り、戦後民主主義然り、自己批判的に国家を分析しより良くしていこうとするものが健全なナショナリズムであり、ネットで蔓延るような愛国心を盾に排外主義・民族主義を肯定し、自由主義・民主主義、リベラリズムを否定するネトウヨは肉屋に並ぶ豚だと思います。国家は国民のために存在するのであって、天皇のものでも自民党のものでもありません。
アメリカも国も役に立たないし信用できないから民間の力で解決するというのは今後の日本を表しているように感じました。いや、既に役に立たないし信用できないが、だからこれからは民間が自力で諸々の問題を解決しなければいけないことを示した作品だったと思います。勿論国の力を借りたり協力したりしなければならなりませんが、あくまでも民間が主体でなければ日本は変わらないと思います。

私はリベラルな人間ですけど、軍人や巡洋艦が頑張っているのを見るとやっぱりかっこいいなあって思っちゃいますね。噛ませだとわかっていても高雄が助けに来てゴジラに砲撃するシーンはもう1番興奮しました。それに高雄が沈められるのもすごいナショナリズムに訴えてくるような悲壮感がありました。高雄という旧帝国海軍の遺物が沈められていくのは、まともに火力で挑んでも無駄なんやな…って絶望感がありました。ワダツミ作戦で歴戦の勇士、幸運の雪風が参加していたのはアツかった…

あとこれは完全な好みですけどやっぱり旧帝国軍の軍服は陸軍より海軍のほうがかっこいいです。

登場人物がメタ過ぎる?

さっきも言いましたけど、大日本帝国の情報統制とかを批判的に描いて沈黙の艦隊とかと違って好感が持てました。秋津が言っていたように今も昔も国家の情報統制は変わらないんですけどね。まあ、あまりにも反戦的だとそれはそれでイデオロギーっぽくなって嫌なんですけど。戦時中から戦後を描くのにそこらへんのバランスはやっぱり難しいと思います。敷島のおばさんが軍人批判していましたけどそれはちょっと違和感を抱きましたけどね。敗戦直後だとやっぱり国や軍のせいってよりアメリカのせいで日本はボロボロになったって感覚のほうが強いと思うので。戦場に行っていない当時の日本人の感覚としては水島のほうが史実に近いんじゃないかと思います。特に彼はまだ若いので、戦争に参加したかったのにできなかったっていう若い人は多かったと思います。でもそれに対して元工廠勤務の秋津が「戦争に行っていないってのは幸せなことなんだよ!」って叱責していたのは痺れましたね。マイゴジの登場人物がメタ過ぎるって言っている人もいますけど確かに太平洋戦争に対して現代的な感覚が強かったのは否めない。

死の賛美への否定

最後に敷島の相手、典子が生きていたのは特攻に始まっていまの日本の様々な作品の死への賛美への否定。登場人物やキャラが死ねばそれはデストルドーによって賛美とエモに消費される。特に最近のエンタメは死がカジュアルなものになってしまっている。それは日本だけに留まらず、死という現象が他人事のように疎外化されているのか、それとも死が日常にある当たり前のものとして享受されているからなのかは私にはわからない。もし後者である場合、現代人は目的がただ目的として機能し、自分の目的達成のための手段としての死が特別視されなくなったということだ。死をただの現象や結果として享受し、賛美することも卑下することもなく、ただ事実としてのみ死が認識される。それは人類の進化か?それとも個人主義によって人間が自然権を権力から取り戻し、自然状態に回帰した姿か?

戦争、核兵器、災害にどう立ち向かうか

マイゴジやシンゴジのゴジラが最後死んでいなかったり、典子の首に黒い血管が映ったりしたのは、ゴジラは戦争や核兵器のメタファーであるから、一時的に難を逃れても、人間がいる限り何度でも蘇ることを暗示している。いや、シンゴジは災害のメタファーだからシンゴジは違うか…

あの黒い血管は多分放射能汚染されていることを暗示していると思うし、シンゴジのゴジラが最後人型に進化しようとしていたのは、戦争、核、災害が現代の人間の宿命であり、そのメタファーであるゴジラも現代の人間の実存を脅かすと同時に、人間の実存を問いかける超越的な存在であるのだろう。それはつまり、戦争、核兵器、災害というものが人間の実存を脅かすと同時に人間に「このままでいいのか?」と問いかける。一神教の神のような絶対的で超越的な事象であることを意味する。それに対して、集団としての人間はヘーゲル的な観念論で対決し、個人としての人間はキルケゴール的な実存主義と神概念から来る現存在として、それらの超越的な絶対者に立ち向かう必要がある。

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