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『映画 プリキュアオールスターズF』は承認をめぐる闘争の物語だった

初めに

面白いとTwitterで話題になっていたのと20周年記念のオールスター作品ということで『映画 プリキュアオールスターズF』を観てきました。

感想としては滅茶苦茶面白かったです。個人的には15周年記念のオールスターズメモリーズを越えた作品でした。

同じ女児向け作品のシリーズ物としてアイカツ!がありますけど、なんていうか、ガンダムにしても特撮作品にしても、そういった長期シリーズの作品っていうのはサーガを作り上げるんですよね。そういったサーガには原点となるテーマがあり、それを踏襲しつつも作品ごとにそれぞれ違うテーマを扱っていき、それが積み重なって巨大な一つの世界が生み出されます。プリキュアはマルチバースで、『プリキュアオールスターズ』という形で定期的に歴代シリーズのプリキュアが一堂に集まっています。これはファンサービスであると同時に私は確認作業だと思っています。なんの確認かというと、プリキュアという作品の原点、初心の確認です。枝葉である各シリーズのプリキュアを全員集めることで、プリキュアという作品の幹の部分に回帰する。

感想

ここからはネタバレですが、異世界に飛ばされたプリキュアが四人一組の四グループになって正体不明の敵と戦いながら仲間捜しと同時並行で巨大な城に向かっていきます。
後で分かることですが、実はこの時点でプリキュアは全滅しており、16人のプリキュアが迷い込んだ異世界は黒幕のシュプリームが一度破壊した現実世界を自分でツギハギに再構築したものでした。その影響でプリキュア達の記憶の一部が欠落しており、面識があるはずの面子が初対面のように振舞ったり、精神面が退化しているキャラがいました。世界と記憶が壊れているっていうのは後から分かったことなので、初め見てるときは「え、なんで?そこ初対面じゃないでしょ」とか思ってましたね。
退化というか、本編のストーリーのなかで精神的に大きく成長したキャラが記憶と体験の喪失により初期のころの未熟さを見せます。そのキャラとはプリアラの橋爪ゆかりなんですけど、もうね、ゆかりさんは初期のころのように人間不信全開で初対面のプリキュアたちを拒絶して吹雪の雪山のなか単独行動を取るんですよ。まあそこから仲直りして協力するようになるんですけど、ゆかりさん推しとしては人間不信で寂しくて繊細なくせに強がっているゆかりさんが他人に心を開いていくところをまた見られたのは興奮しましたね。
さらに、他者に触れることを恐れる今作のオリジナルキャラクターのプーカに手を差し伸べたのが、花寺のどかであったのがもう興奮しましたね。歴代プリキュアのなかで一番生身の身体が弱い彼女が、自らが傷つく危険を冒して触れたものを全て破壊するプーカと手を繋ぐ優しさと強さに感動しました。

余談ですがプーカは能力的にも立ち位置的にもヒロアカの死柄木弔と重なるんですよね。プーカは救済された死柄木弔なんです。

今作では手を「繋ぐ」ことがテーマになっていて、自分と他者を手と手で「繋ぐ」プリキュアと、その手で自分以外の「他」を破壊するシュプリームの対立構造になっている。

「繋ぐ」とは

シュプリームの行動原理ないし存在意義とは他者の破壊であり、その行為はシュプリーム自身の自由意志も内発的な動機もないトートロジーです。ですから彼にはプリキュアないし人類の言語も論理も感情も通じないわけです。言うなれば彼はまどマギのキュウべぇのような存在なのです。

さらに彼は相互行為もしないし相互関係もない。つまりロビンソン・クルーソーのように独りぼっちであり、自分が最強であることを誇示するために視界に入った他者なり世界を破壊する彼は自然状態の野生人なわけです。自分が最強な存在であることを確かめたいと言って世界を破壊する行為は、動物が他の動植物、他者を食べる原始的な行為と同じ抽象概念だと思います。

彼はプリキュアに興味を抱いて、プリキュアの真似をします。一度壊した世界を適当に再構成して、悪役とそれに支配される大衆を作る。そして自分はプリキュアになりプーカというプリキュアの相棒に当たる妖精も作る。しかしこのように物理的にプリキュアを模倣したところで彼はプリキュアという存在を理解できなかったわけです。もっと言うと、世界も悪役も大衆もプーカも彼が作り出した箱庭であるのでそれらは「他者」足り得ない。それはイマジナリーフレンドと脳内会話をして他者とコミュニケーションをとった気になっているのと同じです。

というかここまででシュプリームのことを考えていたらヘーゲル先生の顔が脳裏にチラチラ見えるのでヘーゲル先生の承認の話をします。

ヘーゲルの承認論

G.W.ヘーゲル

シュプリームは自分が最強であることを証明したいと言っていますが、自分以外の他者を全て倒してしまったら他者がいなくなります。他者がいない世界でどうやってシュプリームが最強であることを証明するのでしょうか。強さとは相対評価でしか測れないので、他者がいなくなってしまったら彼の強さを測ることはできなくなってしまいます。自分で自分を最強と謳うのは自己言及であり、それはパラドクスを生じさせます。

ヘーゲルは、人間を含めた動物が生きるために他の動植物、他者を殺して食べることを人間の承認にも適用させます。彼は「承認」とは生死を賭した闘争であると言います。しかし、闘争の末に相手を殺してしまったら、自分を承認する他者がいなくなってしまいます。だから、闘争に勝利した方は、負かした相手を殺さない代わりに自分の奴隷にします。承認の闘争に勝利した者は主人となり、負けた者は奴隷となる。そして奴隷は常に主人を承認するが主人は奴隷を承認することはありません。この不平等な関係性のなかで主人は不満を覚えます。なぜなら下に見ている奴隷に幾ら承認されたところで彼は満足できないからです。これはアイドルとファンの関係性にも似ています。しかし、主人は奴隷がいなければ承認を得られないので、主人と奴隷は共依存の関係であることに主人は気付きます。ここで弁証法が起こり、主人は奴隷が自分にとって不可欠な存在であることに気付きます。それに伴い主人と奴隷は本当は対等な存在であることに気付きます。これが弁証法です。アイドルも同じで、ファンがいないとアイドルという立場が成立しないのでアイドルとファンは共依存の関係です。(こんなガバガバな説明をしたら弁証法警察に怒られそうだけど本題じゃないからゆるして…)

承認をめぐる闘争

本題に戻ります。シュプリームは自分が最強であることを証明したいのですが、世界を片っ端から破壊していったら自分が最強であると承認してくれる他者がいなくなってしまう。彼が創造した世界も、中身のない彼の被造物であるので誰も彼のことを承認してはくれません。唯一自由意志を持っている存在としてプーカがいるのですが、彼はプーカを捨てます。しかし、プリキュアという存在に出会ったことで彼は変化していきます。一度全滅したにも関わらずプリキュアは彼に挑み続けます。シュプリームは最強なのでプリキュアは勝つことはないのですが、死ぬことも彼に従属することもありません。プリキュアとプーカは彼にとって初めて現れた「他者」だったのです。そしてラストでプリキュアは彼と対立しながらも彼に手を差し伸べます。ここで承認が達成されます。他者を破壊し続けて、ロビンソン・クルーソーであった彼は自然状態から社会状態に移行したのです。

「F」とはなにか

『映画 プリキュアオールスターズF』はこの「承認」という話を「繋ぐ」というキーワードで描いています。対立する他者と手を繋ぐことで他者を承認する。エマニュエル・レヴィナスは、「他者」を「絶対に理解することのできない、殺したいほど不愉快な存在」と言いました。ヘーゲルは、「他者とは自分のことを承認させるための闘争相手」と言いました。プリキュアは命がけで他者と闘争します。それは他者を殺すためでも、自分を承認させる奴隷にするためでもなく、自分と他者を対等な承認相手にするために闘争するのです。『映画 プリキュアオールスターズF』の「F」とはfightの「F」、friendの「F」、foreverの「F」。他者と承認をめぐる闘争をし、他者を対等な承認相手である友達にする。「友達」とは同調圧力のなかで生まれる抑圧と相互監視の関係性ではなく、互いの内発性から生まれる対等な承認相手なのです。そしてプリキュアはそのような承認の闘争を永遠に続けていくのです。


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