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なにも見なかった

明け方に裏の工場からエンジンの爆音が響きわたる。田中はそっと窓をあけて2階の寝室から眺める。顔に「近づくな危険」と書かれているかのような作業員の男がひとり。どうやら車を出したいらしい。狭いスペースに10台ほどびっしりと詰められた駐車場の奥から。まるでスライドパズルのように入れ出しをくりかえした果てに目当てのトラックがなんとか道路へ姿を現す。それで油断したのだろうか。我が家の敷地に置かれた植木鉢をうっかり踏みつぶしてしまう。バリバリッバリバリ。おもわず運転席の男は車をとめる。ああ、やっちまった。くそ。めんどくせえ。わざわざ花なんか育てやがって。いらだちながらあたりをうかがう。よし。だれもいない。アクセルをそっと踏んで走りさる。なにもなかったことにして。田中もそっと窓をしめて眠りにつく。なにも見なかったことにして。

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