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009\\\ 音 楽 瞑 想 (その2)

そんな、音楽を聴くのに、わざわざ「内に向けて聴く」などをして、そんなことをしてどうなるのでしょうね? つい思ってしまう疑問です。その答えは簡単です。それは、そのような聴き方をすることで「自分の存在」を自分の「内」に感じられるようになる、ということです。

これは「エネルギー源」となるのです(内を養うことから)。

自分の存在すらも感じられない人が、いったい、外界の何を感じられればよいのでしょう? 何か好きなコト(あるいはヒトやモノ)に向かっていればそれでよろしいのでしょうか? 外に心を奪われていることがそんなに楽しいの? それって「苦」の原因なんじゃないの? というように、追いかけてゆけば、精神的世界の初歩につながっていってしまいます。

世の中には、「外に向かう系」というのと「内に向かう系」というふたつのものがあります。なかなかこの中間というのは無いようです。その「中間」は各自でアレンジしてくださいねということでしょう。実際、うまくやっている人はそのようにされています。


内に向けて音楽を聴いてゆきますと、自分の身体の持っているエネルギーの「方向性」に、だんだんと「変化」が生じてまいります。それはつまり「自分から外に向かわない」ということですから、そんなことばかりをしていますと、やがては「外の方が内に入って来る」ようになるわけです。

身体が(意識や心やエネルギーや呼吸なども含まれます)「求心力的な体質」になってきたということです。人はいつも外のことばかりに気を取られたり気を使ったりして生きているものですが。

「正直言って、そんな(外に向かうことなんて)ことは嫌いだ!」という人もいるわけです。もちろんその逆の人もいて、「そんな自分の存在ばかりを感じて何になるんだ。修行僧じゃあるまいし!」と考える人だっているわけです。

お読みになっていてお気づきだと思いますが、音楽瞑想とは「音楽を楽しく気分良く聴くための方法」ではありません。さきほど書きました、身体が求心力的な体質を持ち始めるキッカケを作るのが、音楽瞑想/インターナル・リスニングという「技法」なのです。

丸いオーラがいいね06

きっと、世の中の9割(ぼくの勝手な想像です)の人々は「外に向かう系」として生きているのだと思います。そういう人が音楽瞑想/インターナル・リスニングのハナシをしても、ほとんどが「ふう~ん・・・」だと想像出来ます。そもそも、この世に生きる人にとって、しあわせとか欲しいもの(コト)などは、みんな自分の「外」にあるのですからね。

そして、世の中の1割(ぼくの勝手な想像です)は「内に向かう系」の人々がいる(と思う)わけですが、なにしろそういう人々はあまり連帯感を持ち合わせてはいません。それでぼくはnoteを発信源として、このような記事を書いているわけなのです。もちろんぼくも「内に向かう系」なのです。

しかし、ただ「内に向かっている」だけでは、それこそ自分の中には「自分の存在」しかありません。それで、まずは内に向かって、内を養い、内の濃度を高めたエネルギーを外に向ける、という順序になるでしょうか。このような「内」と「外」をうまく連動させて相互乗り入れにする技法が、「呼吸法」と「音楽瞑想」だと考えています。


それはやはり、エネルギー源は「外」にあり、そのエネルギーの容れ物として「内」という自分の存在があるものですから、うまく「内」と「外」を結ぶ技法が必要なわけなのです。

与えられた食事だけしていればエネルギーが養われるわけではないものです。なにか、食べたエネルギーとは違う「見えないエネルギー源」が人の身体には必要なのです。これも、タイヤと空気の関係みたいです。

「内に向かう系」は、「見えないエネルギー源」とつながります。タイヤから見たら、空気は見えないエネルギー源です。タイヤに空気を入れることと音楽瞑想とは、同質系の技法なのだと考えるわけです。

空気入れによって空気がタイヤに入るのと同じように、音楽瞑想によって自分の内に見えないエネルギー源が入ってくるわけなのです。

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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