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【読書感想】一気読みした「推し、燃ゆ」

 久しぶりに新幹線に乗った。ちょっと本を読んで少し寝ようと、この「推し、燃ゆ」を読み始めたら、ページをめくる手が止まらなくて一気に読んだ。興奮が冷めず、寝ることもできなくなって、とりあえず思ったことをメモしておいたものと、印象に残った言葉とともに読書記録としてここに書いていく。若干のネタバレもあるのでまだ読んでないよって方は注意。

主人公:あかり
家族との関係も学校生活もあまりうまくいかない女子高校生。
アイドルグループ『まざま座』の上野真幸を推している。

「推しが燃えた。」
 この一文から始まる物語は、主人公あかりの半径1mの描写が細かくリアルに描かれており、景色や行動の表現も豊かで美しくて、世界観にどんどん飲み込まれていく。ページをめくる手が止まらない理由はそれだったなと今になって思う。
 私が中高生の頃、"推し”という言葉はまだなかったけれど、アイドルや俳優の熱狂的なファンの女の子は周りにたくさんいた。その子達も、今でいう“推し活”(CDやDVDは保存用・観賞用・貸し出し用の3つ買うとか、何年経ってもその文化は変わらないのだな。)を夢中でしていて、私はそれがちょっと羨ましかったのを思い出した。そんなことを思い出すくらいティーンエージャーの“推し活”がリアルに書かれていた。

「推しは命にかかわるからね」
 すべてを懸けて誰か“推す”には体力が必要だと思う。私は体力があり余っている頃にはそういう人に出会わなかったし、出会った頃にはもう大人で、世界が広がり色々な楽しみを知ってしまった以上、“推し”だけに自分の生活すべてを捧げ、“推し”を自分の中心に置くことはできなくなっていた。画像や動画を見て癒やされ幸せを感じ、歌声を聞いてやる気を出す。そうやって生活の一部に“推し”が存在していることはあっても、生活、お金、自分のすべてをかけて誰かを“推す”という経験をしたことがない。物語の中であかりは「推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対」でそれは「中心というか、背骨かな」と言っている。推しが自分のすべてで中心で背骨になるというのはどんな感じなのだろう。
 推しのためにバイトをして、推しのためにCD、DVD、グッズを何点も買い、“推し”の出演番組や配信動画のスケジュールを見ながら自分の予定を組み、生活のすべてが推し中心で動く。頑張れる理由が“推し”であり、エンジンが“推し”。そこまでじゃないよって人もいるだろうし、私の推し活はそんなもんじゃないって人も様々だろうけど、物語の中から拾ったイメージはそんな感じだった。ではそんな人が“推し”を失ってしまった時、どうなってしまうのだろう。

「推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。」
 “推し”のためといってとる行動は、結局は自分が生きていくための行動の一つであると思う。大げさに言えば息をするのと一緒くらい。そんな“推し”を失うということは、自分の中心にしてきた存在を失うこと。
 “推し”のため=自分のため
だった、というところが見えていないと、“推し”という存在をなにかしらの形で失ったその後、自分自身のために生きるにはどうすればいいのかがわからなくなってしまうのではないだろうか。
 現に“推し”を突然亡くして苦しんでいる人がいる。そんな人に対して、もっと自分のために生きていいんだよ、悲しみを乗り越えろなんて言わないけど、悲しみを抱きかかえて悲しみの波と上手に付き合いながら、そして“推し”のことを想いながら自分自身のために生きていく道もあるんだよ、と傍から見れば思うのだけど、“推し”という自分の中心を突然引き抜かれ空洞になった部分を埋めるには時間がかかるとも思う。

「自分自身の奥底から正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きるということを思い出す。」
 
この物語に登場する大人たちの気持ちはわからなくもないけど、やっぱりあまりいい大人たちとは思えなくて、あかりは“推し”にのめり込むことでしか自分を守れなかったし、自分を表現できなかったし、生きていくことができなかったのだろう。つまづいた時“推し”に再会し、その姿を見て心に刺さるものがあり、“推し”を追いかけ、“推し”のすべてを覚え、“推し”の行動言動のすべてを記録し、噛み砕き理解し、自分の中に落とし込む。そしてその自解釈をブログに書く。そのブログは上野真幸推しの人たちの間で比較的人気ブログで、更新を待つ人もいる。インプットと理解とアウトプット。しかもアウトプットの段階でいい文章が書けているからブログの更新を待つ人がいる。それは一種の才能だし、あらゆるSNSを使えば物書きの道につながるかもしれないのにと第三者は思うのだけど、“あかりはなにもできない”というフィルターのせいか、近くの大人は気づかない。本人は気づいているのかいないのか、とりあえず来た今日を“推し”を中心にこなしている感じ。あかりもその家族も出口の見えない部屋をぐるぐるしているように見えて、本人も家族も辛いだろうなと感じた。

〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉
 “推し”が“ただの人”になった日、あかりはとりあえず生きていこうと決める。あかり自身今まで、なんで私はできないのだろう、なんで私はこうなのだろうと自分自身のことを解釈できずに苦しみ、だからその分“推し”のことは解釈したいと思って生きてきたのだと思う。その解釈したい対象を失い、抜いて投げ捨てた背骨を再構築するにはきっと時間がかかる。それでもあかりには、今度は自分自身のために生きていってほしいと切に願う。

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