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信仰と忠誠心 【小原克博先生ブログ動画レビュー①】

本日は、京都・同志社大学の創立者、新島襄に関する動画のレビュー・感想を書きたいと思います。

同志社大学神学部の小原克博先生は、ご自身の大学での講義をYoutubeで公開されています。その量・質たるや圧倒的で、毎回平身低頭してスマホ受講させて頂いております。めちゃくちゃおすすめです。
http://www.kohara.ac/blog/2020/01/28.html
【KOHARA BLOG 新島襄に関する動画を2本アップ】

今回の講義動画は、小原先生がセンター長を務める同志社大学・良心学研究センターのもので、講師は同志社大学名誉教授の沖田行司(おきた ゆくじ)先生です。


新島襄とは

新島襄の詳細な説明は、Youtubeの沖田先生の講義解説を見てみてください。

超ざっくり説明すると、武士の子として幕末に生まれながら封建制社会に超絶嫌気が差してる時に、民主制社会・キリスト教国のアメリカに魅せられてしまい、アメリカの貿易船に単身乗り込んで違法脱国。その後、奇跡的にその船のオーナーである篤志家から保護・支援を受けて何と大学まで行かせてもらえ、明治になってからキリスト教の伝道者として帰国し、まさかの仏教勢力の本拠地である京都にキリスト教思想に基づく同志社を設立する、というぶっ飛んだ生涯を生き抜いた偉人です。

新島八重の夫、グンマーあたりでは上毛かるた「平和の使い 新島襄」としても有名です。

新島襄について、よく分からないこと

さて、俺は、すでに小原先生の新島襄に関するYoutube講義(http://www.kohara.ac/syllabus/2013/04/kengaku.html)を受講したことがあり、その後自分でも岩波文庫の『新島襄自伝』『新島襄の手紙』を読んでみた。
この2冊を読んだ目的は、新島の中で、キリスト教への信仰がどういう風に同志社設立という社会への大きな挑戦のエネルギーとなったのかを探ることだった。

日本でキリスト教の教育を広めたい、明治近代日本を良くしていきたい!そのためにはどんな困難にも立ち向かう!その情熱的な生き様は知っているのだけれど、それが新島のキリスト教の信仰からどういう風にモチベートされているのかがよく分からなかったのだ。

現に、俺も一応クリスチャン(のつもり)だが、俺の信仰心からは新島のような社会への挑戦と行動を駆り立てるようなものは生まれてきていない。(悲しい事ながら。。。)

俺の信仰と新島の信仰、同じ宗教を信じているはずなのにいったい何が違うのだろう?

今回取り上げる沖田先生のYoutube講義では、この疑問へのヒントがないかなと期待して見てみたのだが、新島の信仰を理解するためのとても大事な補助線を教えてもらうことができた。それは、「忠誠心」だ。

信仰と忠誠心 〜新島襄の場合〜

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上記の沖田先生の2枚のスライドを見ていただきたい。

キリスト者新島を理解するために、「忠誠心」というとても日本的な概念が使われている! 沖田先生は元々、儒学や江戸時代などの日本の教育文化史・思想史の研究がご専門。学問って奥が深い。。。

さて、ざっくり俺なりに要約すると、新島は、自分の周りにいる武士連中が盲目的に信じる「主君への忠誠心」には付いて行けず、本当の自分・自分の拠り所を探し求める、今の時代にもいそうなモヤモヤ感を抱えた若者だった。そして、武士が主君に抱く忠誠心ような「命がけの忠誠心」でもって、武士に生まれた新島はキリスト教を信仰していたのだった。(注:太字部分は沖田先生の説明ではなく私の解釈です。上記スライド参照。)

西洋かぶれしたにわかクリスチャンである俺には、この視点は全くなかった。

「忠誠心」というものであれば、ギリ昭和生まれの俺にも理解できる。俺の親父の世代までは、サラリーマンになって1つの会社を定年まで勤め上げることが美徳のような「忠誠心」の風潮があった。
この例からも分かるように、「忠誠心」の重大な要素は、その生涯をかけて長期にわたってブレずに尽くし、誓い、従い続けることにある。
ただ、バブル崩壊あたりからなのだろうか、「忠誠心」ってものはダサかったり、年々市民権を失いつつあるように思う。何かに「忠誠心」をもって生きている人って、今の時代かなり少ない気がする。

でも、俺は、せっかく自分が信仰を持つようになったのだから、新島のように一心不乱に「忠誠心」をもって信仰をし、日々を生きることにとても憧れる。
多様な価値観が尊ばれ、多様な生き方が推奨され、一方で大事なことを見失いがちなこの時代だからこそ、この古臭い筋を通した生き方が必要になる場面があるような気がする。

キリスト教って、個人の心の平穏や救いといった内面の問題の力になるだけじゃなくて、キング牧師の公民権運動のように、社会を変革する原動力にもなる。キング牧師ほどのことはできなくとも、自分の身の回りにある不公平や不条理をちょっとでも正していこうと行動すべき時には、新島のような「忠誠心」を養っておくことがきっと必要になる。

『新島襄自伝』より気に入った文章を抜粋

沖田先生のYoutube講義を受講して改めて『新島襄自伝』を読んでみると、今までピンと来なかった新島の言葉が深く響くようになってきた。
特に気に入った言葉たちを紹介して、今回は終わりです。
お読みいただきどうもありがとうございました。

【善をなしうる好機会を逃すな】
銃にはいつも弾を込めておけ。獲物を見つけたら、それを狙って直ちに発砲せよ。獲物は決して人を待たないから。
隣人に善をなす機会を見つけたら、それを逃さない。明日まで延ばさないで、ただちにそれをせよ。なぜなら、その機会は二度と返ってこないからである。鳥獣を撃つのは単なる遊びにすぎないが、主のために人を撃ち取ることは、重大な仕事である。銃には天から授かった命の火薬と命の弾とを込めて、いつでも打つ用意ができていなければならぬ。
人を得ようとする狩人の中には、銃に弾を込めないでいる者が多い。
【神の火】
人の心を熱するためには、神の火が必要である。この火は毎日祈り求めることによって初めて得られる。自分の才能と知識だけを頼りにしている者は、この大いに必要な神の火を自分の聴衆のために、また自分自身のためにも求めることを忘れがちである。火の気もなければ命もないような会衆は、何と冷たく感じられることだろう。
もしもキリストを告白する者一人ひとりが、この神の火を持っているならば、キリスト教世界はどんな様相を呈するであろうか。もしも、めいめいがこの火を持っているならば、キリストの王国はもっと早く来るであろう。
【完全さを求めよ】
何事も中途で投げ出すな。それは間違ったやり方だ。中途半端な科学者、中途半端な説教家、中途半端なキリスト者、中途半端な政治家、中途半端な学者、中途半端な寄附者、といったものは、この世では何の役にも立たない。この世にあっては、目的を持て。その目的のために働こう。目的のない人は、命のない人だ。

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