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振り返る日
○なんだろう、予定がない日というのがあるかと思えば、明日からはしばらく予定が埋まっている。
つまりこの予定がない日を有効に使おうと、わたし自身がこれまで広げてきた風呂敷を畳まないまでも、引きで眺めてみることにした。
○これから学ぶ組織デザイン、サービスデザイン、前に取得したUX検定。
このUI、UXに関してはデジタルのそれというよりは日常生活や職場の中での機械や建物、ものへのユーザーインターフェイスというところを考えたいし、UXもデジタル体験ではなく、ほとんどサービスデザインの文脈に重なる。
仕事(という体験)も消費としての体験も、あらゆる体験の質と体験提供者(職場やサービス提供者)の問題として見つめ直したいと思っている。
組織デザインは、組織図というコンセプトがカタチになることで人間の活動に与える影響ももちろん興味深いが、役割としての組織間のしくみやツールやシステムを考えることはまたサービスデザインと通ずるものと思っている。
○もう一方に意味の研究がある。
社会的な意味や個人的な意味をどのように位置付けるか、それを人の活動にあてれば日常内演技論になるし、商品にあてればパッケージ論になる。
同じことをラベルから考えたとき、その見せ方や見え方は演技やメイクそのものであり、それは嘘というのとは違う、フィクションの「建て付け」のことだ。
それをコンテクストとか文脈などと呼んでもいいかもしれない。
そしてその建て付けは、ある時代的、社会的、または個人的文脈によって変化する。社会の変化と共に意味が変容したときに建て付けを変えなければならなくなることがある。その変容そのものにわたしは興味がある。演劇もまたその文化が構成されるフィクションの建て付けを理解する上で、また重要だ。
○それらをすべて串刺すかたちで「リサーチ」があり「哲学」がある。
リサーチにはデザインリサーチ、質的調査(社会学的)、人類学的なリサーチと複数がある。社会を構成するフィクションの建て付けを研究することは社会学的リサーチで、商品やサービスの消費社会を対象にするならばマーケティングリサーチやデザインリサーチで、調査できるだろう。
人類学的なリサーチのスタンスはやや主観的な見方もフォローする。極めて個人的でありつつも、かつ極めて全人類向けの世界的な視座のアプローチだ。
ティム・インゴルドによれば「人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である」とのことだ。(『人類学とは何か』第1章「他者を真剣に受け取ること」より)
○ひとまず広げた風呂敷の地図を描いてみた。
まだ重要度の高低さやマップ内の温度感などはわからない。振り返るにはちょうどいい日だった。
○しかし、極めて多動だなあと思う。
○この多動の理由をわたしは昨日ふらっと立ち寄った本屋で目にした『躁鬱大学』という本の立ち読みの中で、ようやく理解した気がした。坂口さんほどではないにしても、やはり躁鬱の傾向は中学くらいから明確にあって、思春期にその波は最大化して、大きな鬱に飲み込まれた時期もあった。(ちなみに躁鬱大学はnoteでも読める)
心理士を目指したのは、高校時代に鬱気味の友人の相談に乗っていたこともあるが、おそらく自分の躁鬱の波をいかにコントロールできるか知りたかったからだ。大学に入って演劇をやるようになってからほぼ躁状態が続き、というのも、本気で新しいことを取り入れていかないと間に合わないからだった。それ以降はほとんど創作によって、ずっと救われ続けていた。
そうして今、創作から離れ、がむしゃらに仕事してきて、ひと段落したと思ったら、母が亡くなり、20年連れ添ったペットの猫が亡くなり、倒れた父の看病に疲れ、家族第一でやってきたから友人関係はほぼ切れたなかで、家族はそれぞれのやりたいことをやるようになり、改めてひとりの時間が増えている。大きな転換期にある。
◎自分の弱さも含めて、普通ならあえて外に書かないようなことも、むしろその個人的であるがゆえに世界に開く感じ。そういう日記を書いていきたい。まだ書き切れていない。
頭の中をチラつく幻惑のようなものはだいぶ消えて、リズムも揃ってきて、ゆっくり眠ることができている。
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