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 朝食の際、食卓の下に小さな蜘蛛がいるのを見つけた。毒蜘蛛ではないけれど、娘が見ると「蜘蛛! キモい!」と大騒ぎをして殺すのに違いない。
 それで死角になる位置に自分が立って、蜘蛛を娘の目から隠してやった。
 ところがしばらくそうしていても、蜘蛛の方では一向逃げようとしない。結局ティッシュで掴んで外へ逃がした。
 蜘蛛は本来益虫だから、無闇に殺すのは気分が悪い。それに、あんまり殺していたら地獄に落ちた場合に助けてもらえないようにも思う。娘にもそう云って教えてやるけれど、どうも「キモい」で片付けるから按配が悪い。

 大学時代のある日、辻の下宿で一緒にバンドの曲を作っていたら、急に「くねくねラーメンへ行こう」と言い出した。どうやら腹が減ったらしい。
 くねくねラーメンは辻宅から歩いて五分ほどの距離で、何度か一緒に行ったことがある。豚骨系で、チャーシューが分厚くて美味かったのを覚えている。

 食事を済ませ、満ち足りた心持ちで戻ったら、玄関に置いてあったライブ用の大きなアンプにゴキブリが止まっていた。
「あ」
 辻はドアを開けた姿勢で硬直した。それがあんまり面白かったものだから、自分は笑って膝から崩折れた。
「……笑うな」
「はははははは」
「笑うな」
「ははははは、で、どうするね? はははははは」
「殺虫剤を買いに行こう」
「ははははは」
「笑うな」
 ドアをそっと閉めて、今度は薬局へ歩いて行った。薬局はくねくねラーメンより少し行った所だった。道中、ずっと自分は笑っていたように思う。
 殺虫剤を買って戻ると、ゴキブリは相変わらず同じ場所にいた。とっくにどこかへ隠れたろうと思っていたのに、随分ふてぶてしいやつだと感心した。
 辻は包装を破って、憎々しげに「こいつ……」と言いながら殺虫剤を噴霧した。ゴキブリは驚いて出鱈目に走り出した。
「おわ!」
 足元にくっつかれては堪らない。自分は外へ避難した。
 辻も軽くパニックになりながら、それでも憎しみを込めて噴霧し続けていたら、じきにゴキブリは死んだ。
 死んだら噴霧も止すだろうと思ったが、辻は「イェ〜」と小躍りしながら、さらに噴霧し続けた。
 それを眺めながら、随分幼稚なやつだと感心した。

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