見出し画像

念力

 妻子が泊まりで出かけているので、晩は駅前の吉田屋へ行ってみることにした。
 吉田屋は看板に「広島風お好み焼」と書いてある。広島の人は「広島焼き」とは云わないから、これはきっと本物だろうと前々から目を付けていたのである。

 吉田屋は古い小さな店で、おっさんが一人で行くには都合がいい。
 店に入ると、店主とおかみさんが「いらっしゃいませ」と言った。店主は強面で、おかみさんは物腰柔らかな様子である。愈々いよいよ本物っぽい。
 入口の左手に常連らしい客が二人いた。一人は六十過ぎで、もう一人は四十ぐらいだろう。二人とも焼酎を飲みながら、おかみさんとテレビに見入っている。テレビでは、芸能人がチームに別れて合唱していた。
「あ、こいつは本当に歌が上手いんだ」
「え、これ誰? お笑いの人?」
「お笑いだったかな。まぁ上手いんだよ。この前、別の番組で歌ってた」
 自分は壁に貼ってあるメニューを見て、肉玉そばをオーダーした。
「マヨネーズは、どうしますか?」とおかみさんが問う。
「かけといてください」
「はい、肉玉そば一つね」
「はいよ」
 カウンターで店主が焼き始めた。

 お好み焼き屋の新規開拓なんて何十年ぶりだろうかと、大いに懐かしい心持ちで待っていたのだけれど、どうもここから様子がおかしくなってきた。
 焼くのに随分時間がかかる。他にオーダーがあるわけでもないのに、いやにのんびりした調子である。
 そうして、待っている間に煙草の煙が流れてきた。見ると常連の六十過ぎの方が平然と喫煙している。店構えも古いが、喫煙ルールも昔からそのまま継続しているらしい。
 一見の身で店のルールにとやかく云うつもりはないが、自分の肉玉そばが来てもこの調子だったら、この常連を念力で殺そうと決めた。それで丹田に力を入れて構えていたけれど、喫煙はその一本でひとまず終わったので、とりあえず殺生はせずに済んだ。

 じきに肉玉そばが出て来た。
 直径は大きいが、どうも貧弱だ。何しろ厚みがない。嫌な予感がしながら食べてみると、果たして違う。べちゃっとしている。
 全体、広島のお好み焼きはキャベツのボリュームがポイントである。こんなに薄くてべちゃっとしているのは、そもそもキャベツが少なくて、鉄板の温度も低いのに違いない。
 おまけに、ソースがオタフクではないらしい。
 これは偽物だ。自分はまんまと看板に騙されたのである。

 勘定をして外へ出ると、雨がぽつぽつ降っていた。丹田の力は徐々に緩めて、暗い土手道を歩いて帰って来た。

この記事が参加している募集

よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。