見出し画像

日本の英語教育をよりよくするために

日本の英語教育はどうしたらよりよくなるのか。

科学的に英語を教える環境が公教育で整備されることだと考える。

「英語教育」って何のことを言ってるの?文部科学省が掲げている方針は考慮しているの?

とか細かいことを自分でも突っ込みたくなる主張だが、議論の土台となる定義づけや主張の観点・立場などはテキトーなまま話を進めたい。一点だけ一応補足すると、「公教育」とはいわゆる普通学校で行われている教育一般を指したつもりで。

どうしてこんな考えを持ったのか、高校講師時代の大きな苦悩がきっかけである。

公立高校英語講師時代、とある進研模試の反省会があった。全学年の英語の先生(各学年3人ずつ計9人)が集まり課題点と今後の授業の大体の方針や使う教材などを話し合う場だった。

各学年の代表者が一言ずつ意見を述べていくのだが、そこでベテランの先生が結果を見ながら「今回は文法が悪かったですね、次の学期は文法に力を入れていきたいと思います」と言った。

議論するべき場で数字の解釈を言っただけの発言にもそうだが、そこで肩を落としたのがその発言に誰も何も突っ込まなかったことだ。

「文法」とは?という議論がまとまりそうにない問いをしないのは時間の制限がある場でしないのはわかる。だがせめて、「具体的にどういう風に伸ばしていきたいんですか?」という趣旨の質問はするべきだろう。

当然その場にいた自分も質問はできたが、「うん、なんかそんな感じで」というその場に流れていた無機質な雰囲気に流されてしまった(今振り返ると聞いておけばよかったなぁと思う反面、難しいだろうなぁとも思う)。

なぜ誰も何も突っ込まなかったのか。これは「やる気がない」とか、「面倒くさい」とかが一番の原因ではない。

一番の原因は英語指導のアプローチが組織ベースで統一されていないから。

現在の公立高校の英語の先生(あくまで一般的な)の教科の大体の指導内容・方針はその学校の英語科主任に一任されている場合がほとんどだろう。あとは各々がアレンジして授業をする、という形になっていると思う。

これだと、自分の英語学習の実体験や、本を読んでいいな、と思ったこと、もしくは人の授業を見てやってみたいなぁ程度の発想が盛り込まれることになる。言ってしまえばテキトーである。想いはあっても成果に結びつく根拠があるものは少ない。

英語指導のアプローチが組織ベースで統一されていないと、言ってしまえばみんな好き勝手に授業をするのだ。さすがにそれなりに成果は見込んでいるだろうが。

そして建設的な議論もできない。反省会で「うん、なんかそんな感じで」となってしまう。

もちろん教育委員会も指導力の水準を保とうと様々な研修を行っているし、教員採用試験を合格した教員は全員長い年月をかけて研修がある。

しかしながら、そこで行われている研修も科学的とは言い難い。紹介されている指導例もあくまで上手くいった例を取り上げているだけ。サンプル1の成果を見てもそれが全ての生徒たちに当てはまるわけではない。

そして最後は結局、生徒たちに寄り添いながら自分で考えていくしかない、的な言葉で締めくくられる。

人はみんな違うんだから教育ってそういうもんでしょと考えている教員は非常に多い。

学校の先生は研究者でもあるべきだ。科学的に授業を組み立てて、反省し修正していかないとこれまでの授業の焼き増しになる。

データを収集し、分析し統計を基に行動ベースで対策案を立てる。組織ベースでこのアプローチを統一しないと議論も発展しないし各々の情熱だけが先行してアレンジしまくり、試行錯誤の迷走に陥る。

学校の先生は教科指導の他に部活動の顧問、公務分掌、担任など仕事がブラックだとよく言われる。一番力を入れるべき教科指導がテキトーになっている教員がかなり多いのは現場を知っている人なら必ずうなずくはずだ。

組織ベースで科学的にアプローチするようになれば成果は一定の水準が保てる。システムさえできてしまえばあらゆる手順は機械的に行える。


日本の英語教育はどうしたらよりよくなるのか。

議論が建設的になる、指導力の水準も保てる、作業も効率的になる、そのために科学的に英語を教える環境を公教育で整備することが最も適している解決策であると信じている。

現実的に難しいんだろうが、それでもここを目指すべき。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?