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「怖い仏教」平野純

またひとつ、違う世界を知ってしまった。

本書は仏典のうちの一つ、初期仏教の教団向けに書かれた「律蔵」(〇〇してはいけない等の修行僧向けのルール)を読み解くかたちで、ブッタや周りの僧侶たちの当時のあり方に迫る。

〇〇はしてはいけない部分が、動物と交わってはいけないなど、ゲテモノ事例が多く仰天してしまうのだが、当時の新興宗教であった仏教の状況を読み解くと、なるほど…と思える内容もしばしば。

およそ2500年前、「不浄」「無常」(死んだら何も残らない。今の肉体に執着するな。)とブッタは弟子たちに当時インド道端に沢山遺棄されていた死体を見つめることを説いた。

既存宗教からはさも奇異な集団に映ったことと思う。

ブッタはきっぱりと「死後の世界に囚われるな」と説いているのに、なぜその後の仏教では極楽浄土や地獄など死後の世界や利益が強調されるのか。
ずっと謎だった。

ブッタ死後、まずはお膝元のインドにて仏教をよりブランディングしていくために、多神教の馴染みがあるかの地で、沢山の神のモチーフも用いる必要があった。

その中に「阿弥陀如来」や「地蔵菩薩」などあの世を司る神が入っていたため、死後世界観の重要性が、ブッタの教えとは関係無く広まったそうな…。

ブッタからすると最もクリティカルな部分が変換されてしまったということなのか…。

当のブッタの逸話も、当然神話のように盛り立てられている箇所はありつつも、「盛ってる」部分を差し引いたとしても、

・実は王子といってもかなり小さな地方自治体の長だった。(なので煌びやかな生活を捨てて出家した、とは少しニュアンスが違うだろう)

・結婚12年目に子供ができた妻のことがほとんど語られていない。(愛する者達を惜しくも打ち捨ててまで出家した、ともニュアンスが違い、そもそも政略結婚の従姉妹妻を愛していなかった可能性が高い)

など、読み解ける部分が多くておもしろい。これは新約聖書やコーランにも通ずるところなのだろう。

既存宗教に疎まれる新興宗教の祖だったブッタは、ライバルから沢山ハニートラップを仕掛けられるが、ものともしない。

これは、清らかな宗教者として己を貫いた(後の浄土宗開祖法然のような)とは少し違っていて、

そもそもの異性や「生」に執着してしまうことへの、「忌嫌」コンプレックスにも違い嫌悪感がそうさせたのではないか。

ここに書いてあることが全てでないにせよ、また少し違った仏教の顔をみた気がした。

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