サブスク時代に見るドラマより(002) 1976年放映TBSドラマ「高原へいらっしゃい」
1976年にTBSで放映された山田太一脚本の「高原へいらっしゃい」というドラマがある。都市生活から押し出された、もしくは弾き出された若いスタッフ間の共同生活が描かれているドラマである。主人公は元ホテルマンでアルコール依存症で苦しみつつ再起を模索する、離婚寸前の中年男性を田宮二郎が演じている。敢えて、主人公にはここでは踏み込まない。
そこに描かれた活動は長野県八ヶ岳高原に捨て置かれたホテル内で、食住混在の個別同居生活が営まれる。1970年代後半都市は当然ながら問題を抱えている。光化学スモッグに代表される公害の蔓延やコンクリートジャングルといわれる高層化に拍車がかかり、しらけ世代と言われた若者の憤懣はつのっている。自己実現できない鬱屈は若年層の持つ普遍性であろう。そんな都市生活でなし得なかった関係性が偶発的に誕生する。擬似合宿家族のような他人同士の結び直しが必要とされたからである。
今ではおおよそ理解し得ないような、ホテルのロビーでフォークギターを掻き鳴らし、車座となり参加者全員で合唱している。一度切りのイベントではなく日常的にフォークギターを中心とした集会が描かれる。
フルコースの本格的フランス料理が売りの高原のホテルのロビーである。そのアンバランスが同居していることに違和感を覚えるのは、時代の趨勢に対する認知不足だけが理由だろうか?
高齢者のコック長や地元で雇用されたオバヤンから20代のスタッフまで包括する合宿そのものの宴の中心には、コック長の片腕である憂いのある若者が掻き鳴らすフォークギターがある。
そこに見るのはフォークソングを歌う行為の意味が現在では通じない、つまり文化的な断続がある点であろう。プロテストソング(Protest Song)の流れの末端にある共闘的な、若しくは牧歌的な共有時間を堪能可能な関係性のハードルが低いのではなかろうか?その程度で留めておく。
*フォークソング語りは後ほど充分に考えてみたいテーマではある。
ここで見逃されてしまいがちな要素は、おばやんという高齢女性と孫の血縁者の若者が通いで混ざる関係性の周辺性との距離感がある。地域に暮らす、時田は気のいい中年男で牧歌的雰囲気を醸し出す役割を担う。都会から集められた若者と地元の高齢者が適度に反目しつつ融合してしまう場所性がある。高原という場所に隔離されているかのような、別天地の装いがある。
高原のホテル内には合宿家族があり、そこに地元が少しだけ介入するが、あくまで都市の幻影が中心にある構図なのだ。また主人公のマネージャーは妻の父親から課された廃墟ホテルの再生が命題で、夫婦関係の修復が重ねられている。
子どものいない夫婦が高原で家族のようなものに包摂されているイメージまでの道程を描いているとも言えるのである。
家族の有り様のバリエーションをセクトの中に見出し、学生運動に傾倒していた時代の残り香にほろ苦い挫折感を重ねることで、駆動させる青春の残骸と、のようなものに包摂された男女にとって家族とはなにか?このようなアングルも与えて置きたい。
時代についての下敷きを用意すると、ディカバージャパンであり、民藝的な感性による再発見の流れがある。近代性に対して批評を文化や世代に追わせることから、自分たちの持ち物の整理から生まれる価値の再定義であり、意味付けでもある。岡本太郎が縄文の中に、作風を見出すように、日本という意識の根源にあるものの抽出という側面もあるだろう。
高原へいらっしゃいをホームドラマだと読む偏向性についてご批判はありがたく頂戴するが、ホームドラマのホームについてどれだけ言及されて論じられたのかは、疑問を挟んで置く。文学や社会学的な「家族」とTVドラマの「家族」では、何が違うのだろうか?時代と共に家族はどうあるのか、興味は尽きないテーマである。次回はホームという場を追求してみたい。
第2回了
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