コロナ下のアーカイブ集よりー2020年の記憶。批評・批判論 有名人問題 0002
有名人Twitterの批評性と批判の特性
主観的で実証的な検証が曖昧な草稿の持つ脆弱性を鑑みて、大人の余裕で読み飛ばしていただきたい内容と断りを入れつつ。
西暦2020年という1年間について、歴史はどのような判断やイメージをー与えるのだろうか。オリンピックが延期され、コロナウィルスが世界じゅうに拡大し、史上最高値を更新し続けていた米国株が急落し、世界恐慌の幕開けではないか!などと、騒がれている。
自粛期間で余暇を仕方無くやり過ごす人々にとっての現状は、感染予備軍の感染待ちの待機者という側面と、戦時下であり巣籠り兵士として、ウィルス感染防止のため行動を抑止し、蔓延を最小化する防衛者として、参加者としての役割を受け入れている現実がある。
見えない放射能との戦いや、テロとの戦いから、ウィルスとの戦いに変化した社会が現在であり、この間にも天災や震災による被害のリスクは存在している。そんなテレワーク、自宅待機、巣籠りの時間が増大する中で、ひときわ注目されるのがTwitterによる、政治批判や個人攻撃をベースとした説教批評の壮絶な増産問題である。
批評と批判の背景
上から目線の、過去に売名に成功した人々の延命ツイートの痛さについて、考えてみたいと思う。
暇人と化した、アスリート崩れ、過去にヒット曲があるが既に売れなくなったミュージシャンなどなど、名前は知られているが、現実的には古い人とカテゴライズされた、仕事のない著名人群は、あたかも自分には発信力や発言力があり、そのツイートが多大な影響力があると勘違いしたまま、時間が止まってしまった症例の群がいる。当人が一番わかっていないので悲惨であり、悲しみは深い。哀れなので放置されて、誰もアドバイスなどしてくれないからだ。
過去のスポットライトの幻影に酔ったまま、昔の自分にあった存在感や力が今でも継続していると過信したがっているので、発言が全てステージの上からオーディエンスに語るような、頓珍漢な陶酔ツイートをしてしまう。
専門家の尻馬に乗り分かったようなツイートをし、身勝手な応援ツイートを連打したり、存在感を示したいと、気の利いた言葉を捻り出し、ダダ滑りをしたり、事象に紛れての宣伝をさりげなく匂わせたりもする。案の定スベってしまう。
痛い有名人病
その焦り、こそが、その焦燥感が大衆がもっとも嫌う行為であるという、本質が見えない。だから、痛い。
表現者である、自分という勘違いがメインなので、受容者は観客や応援団であるかのような漠然としたイメージを抱いしまうのであろう。
そもそも、表現者というのは、受容者こそが一番の表現者であり、その表現のコマとして猿回しの猿が自分なのだという、根本原理を見落としているのだ。アーティストの楽曲は大衆が自己表現するツールを提供する生産業であって、現在令和時代では、真の意味でのカリスマでも、スターなどではないのだから。大衆の為に自己犠牲をすることで、芸事は成立する。そして、換えの人材は無限に存在している。椅子取りゲームの勝者の交代はすぐだ。
大衆という表現者
有名人はコマである、ネタ元でしかない自分を謙虚に顧みることからスターすべきであり、間違っても特権的な才能を持つ特別な存在などという、おごりを捨てなければならない。そもそも、有名人の成功の99%は運でしかない。
1%の才能を磨く職人であれれ?
暇になった有名人が、暇つぶしにツイートなどしないで、成功の99%の運に感謝しつつ、ほんのわずかな1%の才能にあぐらをかかずに、謙虚に引き籠る努力をすべきだ。
そもそも、表現者とは99%不遇である方が、慢心がない分、生存可能性は延命される。
慢心が全てを台無しにするのだから。
批評と批判をするのは大衆の大切な仕事である。ネタ元の人間がすることは唯一自粛の中で自らの生き様を磨くだけ。間違っても、大衆批判や迎合、社会批評などというお門違いの暴挙に出ないことである。
批評や批判の持つ構造の背後には、必ずルサンチマンが存在するのだ。著名人がその行為に至るときには、かならず己の不遇さに嫌気が指しているのだから。
冷静に孤独を生きてみることから、再開すればいい。 ー続ー
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