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ボクの好きなコミュニケーション漫画4作

頭空っぽでキッチンに立つように、とりあえずカチャカチャ文字を打ちますが、これでもけっこー書かねばと数百回思ってたテーマ。
ボクはコミュニケーション×漫画が好き。ほぼスポーツですね。

アオアシ


例えば『アオアシ』。これは今現在行われているサッカーW杯とリンクしつつ、強くコミュニケーションを感じる。

冷静に考えれば、競技場内に競技者が22人。監督やコーチ、それ以外の関係者、そしてもちろんつんざくほどの声援を送る観客。
その全員が言語を持っているわけである。うるさいこと、うるさいこと。

そんな環境下で90分とハーフタイムにかけて会話をしながら、よく走る選手だと12,3km以上走り続けている。足は攣るし、酸欠状態、脳みそグデングデン。
だから本当はろくな会話なんてできやしない。始まってしまえば最後、断片的な言葉を掛け合いながら、目まぐるしく変わる戦況にほぼ一人で、アドリブで対応するしかない。始まる前に詰め込めたデータを認識したり誰かと確認するのも、ほぼほぼアイコンタクト程度と聞く。


「サッカーは言語化だ」
一昔前は「ボールは友だち」だったサッカー漫画から、とても賢くなった気もする。人類の叡智だ。でも本質は多分延長線上にあって、ボールでコミュニケーションするか、行動原理を言葉に落としこんでコミュケーションするかの違いなのだと思う。
そして存外、後者のタイプだけでは勝てなかったりするのはいかにも人の行うスポーツなんだなーと、見てて感じる。


アオアシのヒロインの花が好きだ。…もう一人のヒロイン杏里も超好きです(正直)

いや、最初は花は嫌いだった。
彼女はあまりに恋愛要素的に主人公葦人を引っ張るので、サッカーに要らんだろとイライラしてたけど、違った。
サッカーを知らない彼女もまた、言語を持つプレーヤーとしてこの漫画の上に立っている。

当たり前のことを当たり前に言葉にして言い、伝える。
この行動かつ言動というのは、応援という意味もあるけど、どこか指導者や監督が下す決断にも似た、頼れるメッセージにもなっている。

ボク個人の感覚に過ぎないけど、何事も言わずに済ませる人が多いので首を傾げながら生きてたりもする。言うんだ、相手のために。言うんだ、自分のために。って花を見てるとまた別の言語化を感じれる構造になってるコミュニケーション漫画でもある。

ボールルームへようこそ

人は流動的なウニョウニョしたものを放ってると教えてくれる漫画。社交ダンスを中高生世代がする。全然地味じゃない。全然華美じゃない。ただただヒト臭い。

自分を見ろ、と強く叫ぶエゴイズムをベースに、燕尾やドレスに身を包む人間らが舞台を踊る競技。彼と彼女は息がピッタリだ、と見る人は解釈をするのだけど、果たしてそうだろうか。ここにあるコミュニケーションは自分・パートナー・ダンス、それぞれの認識のズレを埋めていくような作業かもしれない。
わからなくていい、わかりあえないのだから。でも曲が流れれば時とダンスに身を任せ、多くを共にしたたった一人の他者とただ踊るしかない。それが最高で最低なんだ。

自分はダンスや音楽が不得手なのだけど、それは誰かに身を任せるのが苦手なことと少し似ている気もする。羨む世界を覗かせてもらっているような気分だ。

おおきく振りかぶって

高校野球漫画。理論派で食事法から応援法、メンタリティな解釈まで取り入れる野球漫画は当時から異質だった。(2003年連載スタート)
本来はきっと、青春を過ぎてから読む方が楽しめる作品なのかもしれない。小学生の頃から主人公の三橋くんに気持ちを寄せていたボクは少し珍しかった。

彼はとてもウジウジしている。キョドキョドしてキモい。単純にコミュ障どころか会話が成り立たない。ネガティブクソ野郎。およそこのタイプがピッチャーという生き物に配役される漫画は滅多にない。なぜなら人気が出ないし、実際こんなピッチャーは存在しにくい。(物静かなタイプ、競争的じゃないタイプなどの作品はかなりあるけど、こんなにも脆弱で内気なタイプは珍しい)

野球は極端にただ一人の責務が大きい。「ピッチャーという役割が9割を占めるスポーツ」とプロの監督も口々に言うくらい。
だからそこに非力な弱虫を置くなんて、負けるためにやってるようなものなんだけど。
そんな彼を周りが支える。支えたくなる姿勢を彼が示すから。

全員1年生のチーム、監督は女性。彼のコミュニケーション不全なサマを優しくチームメイトもいれば、イラつくチームメイトもいる。それでも認められて初めて1番を付けて戦った試合。相手は去年の優勝校。リードしながら最終回、ガス欠になってボロボロになった三橋にチームメイトが声をかける。

キャプテン「三橋!! 後のことは任せて、お前の一番いい球投げろ!!」

三橋はすでにチームメイトに怒られたり嫌われたりしているんじゃないかと勝手にネガってたんですが、みんながあまりに優しい言葉をかけるので「どういうイミだ?」と不思議がるシーンです。
そもそもの自己評価の低さや負け犬精神が根付いた彼が、やっと少し周りを見れる瞬間でもあります。

まだまだその先もキャッチャーとの歪なコミュニケーションの壁にぶち当たったりしながらも、彼が本当のエースになるために本当の人間性や才能に自覚していくわけです。今もまだまだ高校球児です__。

亜人ちゃんは語りたい

一番おすすめする漫画はスポーツ漫画じゃありません。亜人と書いてデミと呼びます。これは2014年から始まっていますが、もちろん今ほど多様性という言葉の存在感はなかった頃に読んだのでかなり震えました。

亜人という妖怪や怪物をモチーフにした人種が当然にいる社会。その高校生と人間の先生が織りなす、ただの会話漫画です。
違いって面白いよね、ってだけの話なんですが、それを漫画に落とし込めてるから本当にすごいなあと思うんです。
あと違いは話し合いたいという本能をきちんと亜人にも人間にも持たせているのも。

もちろんそこにいる人間と亜人との違い、悩みや葛藤が本筋です。衝突さえします。そこへの歩み寄りや価値観のすり寄せを喋り合うっていうのは現実より現実な気さえします。そこにあるのはやはりコミュニケーションな訳で、話し合うという行為を避けては通れないわけです。

あとはこう、大人がしっかりしている。亜人というほとんど同じで少し別の違いを持つ存在に、学びつつ付き合いつつ一緒に生活している。それはもはや世代間のカルチャーショックにも似たことなのかもしれないけど、そこへの勇気や興味なんかは、もちろん誰もが持てるものじゃないから。

もうすぐ本作は終わってしまうのでかなり寂しい。そのくらい彼女らの生き様語り様に惚れ惚れしてしまったんだなあと思う。


コミュニケーションと漫画。面白い作品には必ず心に残る会話があるんだろうけど、ボクは作品構造そのものにコミュニケーションが組み込まれてるのが心地いいみたいだ。

他にもマジで男子高校生が川辺で喋るだけの『セトウツミ』や、田舎町の高校の中で起きる生徒らのなんでもない会話を切り取った『潮が舞い子が舞い』なんかは、しょーもなさと会話の深さが入り組んだコミュニケーションが味なのでおすすめ。どちらも漫画という技法と間だから生む笑いがあってたまらない。



創作の片手間に飲むコーヒー代にさせていただきます!また作ろうって励みにさせてもらいます。