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20世紀の心理学・神経科学において最も有名になった症例の話

 「海馬と記憶」の関係は、現代を生きる私たちにとっては「常識」と言えるほどの位置づけになりました。


 「おじいさん、朝ごはんはもう食べたでしょ」

 これは典型的なアルツハイマー病の症状である「健忘(記憶障害)」を端的に表すやりとりです。
 典型的なアルツハイマー型認知症では海馬の機能に障害が起こるため、新しく出来事を覚えることが出来なくなるわけです。


 しかし、このような「記憶」に関する基本的な知識も、20世紀までは当然のことではありませんでした。

 「記憶」については、過去に多くの哲学者や心理学者が論じていました。
 いわゆる「短期記憶」と「長期記憶」に対応する概念も提起されてはいました。
 しかし「その2つは脳の機能として異なるものなのか?」「そもそも脳のどこが司る機能なのか?」と言った疑問については、結論が出ていませんでした。
 健常人の実験には原理的な限界があったのです。

 そこに決定的な証拠を与え、「記憶と脳」を間違いなく「神経科学のテーマ」として位置付けたのは、ある手術を受けた患者でした。


 今回の記事では、「症例H.M.」として知られた患者(本名ヘンリー・モレゾン)を紹介します。
 そしてH.M.を起点として、「海馬と記憶の関係」および「短期記憶と長期記憶の違い」について解説していきます。



症例「H.M.」

 1953年、H.M.という27歳のてんかん患者が、脳外科手術を受けました。

 この手術でH.M.は、脳の「内側側頭葉(ここに海馬が含まれる)」を切除されました。

赤色部分が海馬体(海馬+海馬台+歯状回)
画像は「BodyParts3D」により生成
© The Database Center for Life Science licensed under CC Attribution-Share Alike 2.1 Japan

 補足として言っておくと、「内側側頭葉切除」自体は現代でも行われている手術であり、てんかん発作を止めるためであれば現代から見てもそれほど間違った治療ではありません。

 実際、H.M.もてんかんについては(完治とは言わないまでも)かなり発作が良くなったようです。
 しかしH.M.の場合、「両方の内側側頭葉」を切除されてしまったことが問題でした。


 手術後、H.M.は病棟内で既におかしな様子を見せていました。

  • 何度行っても病棟のトイレの場所を覚えられない

  • 何度も会っている病棟のスタッフに毎回初対面のように接する

  • さっき話したばかりのことを全く覚えていない

 結論から言うと、術後の彼は「新しい記憶が作られない」という状態になっていました。


 一般的な記憶力の検査(WMS)でも極端に成績が悪く、一つの課題を終えて別の課題に移ると、一つ前の課題は「やったことすら覚えていない」という状態でした。  

 しかし興味深いことに、知能検査でのIQは112と全く正常(むしろ平均的な健常人よりも高い)でした。
 手術前までの記憶はほとんど保たれていたので、言語などには支障がなかったのです。

 つまり、言語や空間能力のような「いわゆる知能」に対して、記憶という認知機能は異なる神経基盤を持っており、それはおそらく海馬と関連しているであろう、ということが明らかになったわけです。


短期記憶とは何か

 先ほど「内側側頭葉の手術によって記憶できなくなった」と書きましたが、ここで「短期記憶」や「ワーキングメモリ」という言葉を知っている人はちょっと引っかかるかもしれません。

 例えば「数字の羅列をその場で覚えて、すぐに順番通り唱える」という課題は「数唱」と呼ばれますが、こういう「その場でアタマに入れて、その場で呼び出す」ような課題で使う能力は「短期記憶」と呼ばれます。
 それと少し似ていますが、例えば算数の暗算などする時には、「数字を頭に入れたまま足したり引いたりする」という認知処理を行います。このように「アタマに情報を留めておきながら、情報の処理も行う」ような認知機能は「ワーキングメモリ」と呼ばれます。

 これらは「記憶(メモリ)」という機能がついていますが、症例H.M.では、こうした「記憶力」も失われているのでしょうか?


 結論を先取りしてしまうと、現代の神経科学者は、特に断りなく「記憶」と言った場合には、「短期記憶」や「ワーキングメモリ」を含めない場合が多いのです。
 この理由の一つもまた、H.M.からの知見です。


 H.M.は、短期記憶やワーキングメモリを要する課題、つまり数唱や暗算では、問題なく正解することが出来ました。
 このことから、短期記憶ワーキングメモリは、海馬を必要としない機能であることが分かりました。

 それまでは「短期記憶と長期記憶の間に境界線はあるのか? それとも同一機能を時間的な離れ具合で勝手に分類しているだけではないのか?」といった議論もありましたが、ここに至って明瞭な境界線が見えたわけです。

 その場で情報を一時的にアタマに留めるだけなら海馬は必要としない
 昨日のことを思い出すような記憶には海馬を必要とする
 前者を「短期記憶」、後者を「長期記憶」と呼ぶことの合理性が実証的な根拠として示されました。

 そして、現代の神経科学では単に「記憶」と言った場合には、基本的に「長期記憶」の方を指して、「短期記憶」や「ワーキングメモリ」は含めないというのが通例です。

 少し脱線しますと、現代の神経心理学の考え方では「短期記憶」はむしろ注意機能遂行機能と神経基盤を共有しているものと理解されています。(これは後ほど別記事で紹介します)


読み飛ばしてもいい話

 少しややこしい区別として、「即時記憶」「近時記憶」「遠隔記憶」という言葉もあります。

 「言われた数字の羅列をその場で同じように唱えて下さい」は即時記憶
 「今日の朝ごはんは何でしたか?」は近時記憶
 「あなたの卒業した小学校は?」は遠隔記憶

 つまりこうなります。

即時記憶・近時記憶・遠隔記憶と短期記憶・長期記憶の対応関係

この図に示したように、
  短期記憶≒即時記憶
  長期記憶≒近時記憶+遠隔記憶
 と考えてほぼ差し支えありません。

 この区分をH.M.のケースに当てはめると、
  「即時記憶」には全く障害が無く
  「近時記憶」ほとんど完全に失われており
  「遠隔記憶」手術前のことなら大体覚えている
 と言えます。

 ただ、場合によっては「近時記憶」のことを「短期記憶」と呼んでいる人もいるので要注意です。
 専門家からはおしなべて「誤用」とみなされている用法なのですが……


神経科学と心理学への示唆

 H.M.は「単なる珍しい1症例」であるというだけでなく、そこから神経科学・心理学の普遍的な発見のきっかけとなりました。

 中でも、特に重要な指摘は以下のようなものです。

  • 「内側側頭葉」という脳部位は「記憶」の形成に不可欠な存在である。

  • 海馬を失っても、暗算や復唱など一時的・即時的な把持は可能である。

  • ゆえに、「長期記憶」と「短期記憶」はそれなりに明瞭に分離できる機能である。

  • 同様に、言語など「いわゆる知能」も、記憶とは分離できる機能である。

 さらに、彼に対する綿密な実験を通して、記憶に関わる神経心理学的な手法やロジックが非常に成熟した、という側面も見逃せません。
 彼の実験協力によって、実に多数の論文が世に送り出されました。

 海馬に関する動物実験から、アルツハイマー病の臨床論文、さらには学習理論に関わる教育心理学など、彼から得られたデータは現代でも非常に多くの学問領域に波及して引用されています。


 H.M.の論文については、あまり語られない比較的マイナーな知見でも非常に面白いものがまだまだありますので、今後も少しずつ紹介していきたいと思っています。

 

今回はここまで。 
最後にちょっと確認テストを付けてみたので、挑戦してみて下さい。



確認テスト

以下Q1~Q3の太字の各文について、誤りがあれば修正しなさい。
(解答・解説は下にあります)


Q1: 海馬は外側側頭葉に位置しているため、脳を底面から覗き込むと見える。


Q2: 人間の記憶のほとんどは海馬に蓄えられている。


Q3: 「陳述的記憶」という言葉にも表されるように、H.M.が記憶できない情報は言語的な情報に限られていた。


Q4. 「昨日の夜に誰と会ったか」は短期記憶に属する。


以下に解答と解説があります。




解答・解説

A1: 海馬は内側側頭葉に位置している

 症例H.M.は内側側頭葉の切除を受けたために海馬を失ったのでした。
 内側に隠れている構造物なので、脳の模型で海馬を見つけるためには、底面から覗き込むか、内側から見る必要があります。


A2: 人間の記憶のほとんどは海馬に蓄えられているわけではなく、記憶を脳に書き込む際に海馬が機能していると考えられている。

 海馬自体に記憶が保存されているならば、内側側頭葉を切除したH.M.は過去のこともほとんど思い出せないはずです。しかし実際にはH.M.は手術前の記憶の欠損は軽度であり、「新たに覚えることができない」ことが主たる症状でした。
 この事実から、海馬は「記憶の保管庫」というよりも、「記憶を脳に収めるための役割」を担っていることが分かります。


A3: H.M.が記憶できない情報は言語的な情報だけでなく、視覚的な情報も記憶することが困難であった。

 H.M.の「何度も会っている病棟のスタッフに毎回初対面のように接する」というエピソードを思い出してください。相手の名前を憶えていなくても、顔さえ覚えていれば「この人とは昨日も会ったな」ということは分かるはずです。つまり、H.M.は新たに会った人の顔も覚えていないのです。
 「Declarative memory (陳述記憶・宣言的記憶)」という言葉につられて「言語的な記憶」と誤解する方がたまにいますが、この「declarative」は「覚えているかどうかを自分で言える」というニュアンスで捉えるのが良いでしょう。
 「昨夜この辺でこの顔の男を見なかったか?」も、海馬によって記憶されるdeclarative memoryの一種です。


A4: 「昨日の夜に誰と会ったか」は長期記憶に属する。

 一つの目安として、「別の作業をやった後でも覚えている」とか「一晩眠った後でも覚えている」ものは全て長期記憶と考えて良いです。
 「読み飛ばしてもいい話」に書きましたが、「昨日の出来事」などは長期記憶の中でも「近時記憶」に含まれます。




【参考文献】

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