「アファンタジアAphantasia」とは何なのか
突然ですが、「キリン」を思い浮かべてみてください。
それがあなたの目の前にいると思って。
おそらくこの記事を読んでいる方のほとんどは、程度の差はあれど「キリンらしき動物の姿」を目の前にイメージすることが出来たかと思います。
キリンの長い首、長い脚、黄色と茶色の柄も、大体の人が思い浮かべられたでしょう。
しかし、こうした能力にはそれなりに大きな個人差が存在するようです。
これと関連して、「アファンタジア Aphantasia」という概念が近年注目を集めています。
ただ、本国アメリカでは元の科学的概念とはかけ離れたファンタジーじみた拡大解釈に基づいて誇大広告と共にこの名を振り回している団体もあるようで、日本語でも英語でも普通に検索するとこの手の非常にアヤシイ方々の主張を真に受けたサイトに引っかかってしまう状況となっております。
というわけで。
今回から何本かの記事に分けて、この「アファンタジア」という難解な概念を、なるべく科学的な観点から紹介していきたいと思います。
心像とは何か
冒頭に紹介したように、多くの人には「そこに無いものをあたかも存在しているかのようにイメージする」能力があります。
こういう心の中に描くイメージおよびそれを形成する能力を、「心像 imagery」あるいは「心的イメージ」と呼びます。
例えばこういう歌詞がありますね。
目を閉じている時には現実の星は見えないはずなので、この歌詞は「億千の星の心像」が形成されていると解釈できます。
心理学界隈では視覚が特によく研究されているため、「心像」といえば「視覚心像 visual imagery」のことを指すことも多いですが、視覚以外にも適用できる概念です。
例えばネットスラングでよく言われる「脳内再生余裕」は、「聴覚心像が容易に形成できる」と言い換えることが出来るでしょう。
ただ、これから述べるアファンタジアは主として視覚心像を対象とした概念なので、以降は「心像」と言ったら基本的には視覚心像のことだと思ってください。
はじまりは症例報告から
何らかの脳機能が損傷されると、この「心像」が失われる場合があります。
これを症状として記述した最初の報告は1883年のベルナールとシャルコの症例報告 (Bernard & Charcot, 1883)と言われています。
ただ、この症例は他にも顔認知や文字認知の障害を合併していたため、この症例から視覚心像の障害を中心にした議論は広がらなかったようです。
CTもMRIも無かった時代なので、病巣も不明なままです。
この症候が改めて着目されるきっかけとなったのは、2010年のゼーマンの症例報告 (Zeman, 2010)です。
この症例は、心臓の血管の治療を受けた後から視覚心像が形成できなくなったと記述されています。
通常のMRIでこの異常を説明しうる病巣は指摘出来ませんでした。
しかしfMRI(脳部位の活性化を検出する検査)では、視覚心像を形成する課題で健常人と異なる活性化が見られ、これが彼の「視覚心像の障害」に対応する傍証と考えられました。
具体的には、後頭葉の一部で健常人よりも活動の低い部位があり、前頭葉の一部で健常人よりも活動の高い部分があったのです。
この症例の認知機能で興味深いのは、一般的なテストで計測されるような「モノを見て判断する能力」や「見たものを記憶しておく能力」には異常がなく、むしろ一般人平均よりも高い点を取れていたということです。
このZeman (2010)の報告を機に、「視覚心像を想起する能力」は視知覚的能力や視覚的記憶能力とは独立した認知機能であると考えられるようになりました。
「Aphantasia」の提唱
先ほどの2010年のゼーマンの論文が一般向けの科学雑誌で紹介されたところ、「言われてみると自分は生まれた時からずっとそういう状態だ」という人たちがゼーマンの元に名乗り出てきました。
これを受けてゼーマンは2015年の論文 (Zeman, 2015)で、「アファンタジア aphantasia」という概念を提唱しました。
特に、彼の元に名乗り出てきた人々のように、「生まれた時から心像を形成する能力が人より著しく低い、もしくはそれが無い状態」は「先天性アファンタジア congenital aphantasia」と呼ぶことにしました。
これに対応して、2010年に報告した症例のように「元々は心像を形成する能力があったが、何らかのきっかけがあってその能力に障害が起きた状態」は「後天性アファンタジア acquired aphantasia」と呼べるだろう、というわけです。
このように「アファンタジア」は科学的には「後天性」が最初に報告され、後にそれが「先天性」でも起こりうるとして成立した概念です。
しかし、近年では「先天性アファンタジア」を巡ってあまりに大きな社会的な反響があり、もはや「先天性アファンタジア」のことだけを指して「アファンタジア」と呼ぶような用例も見受けられます。
一つ注意しておくべき点は、「後天性アファンタジア」では一人の症例に対して綿密な認知機能評価や画像検査が行われているのに対して、「先天性アファンタジア」に対しては自己申告以外の評価がほとんどなされていない研究も多いという点です。
この点は判定基準とも関連して数多く問題が指摘されているので、別記事で扱います。
中間まとめにかえて
アファンタジアとは何なのでしょうか?
まだ続きの記事を書いているところなので、ここで結論は出しませんが、ここまでの研究の経緯から押さえておくべきポイントはいくつかあります。
まず、ゼーマンが最初に報告した後天性アファンタジアの症例については「それまで出来ていたことが出来なくなった」という点で「脳機能障害の一種」と言えそうです。
しかし、先天性アファンタジアはどうでしょうか。
あまりに即物的な喩えですが、「それまで当たり前のように逆上がりが出来ていた人が、ある日突然全く逆上がりが出来なくなった」としたら、筋肉や神経に何らかの異常が生じていることが想定されますが、だからといって「生まれてから一度も逆上がりが出来なかった人」に何らかのラベルを付ける必然性はあるのでしょうか。
確かに研究対象として論文を書く上では「名前を付けて概念化する」ことに意義がありますが、目下のところ「アファンタジアというカテゴリが実用的には役立つとまでは言えない」と、個人的には感じます。
ちなみにゼーマン自身は、アファンタジアも「人間の多様性の一側面」と捉えているようです。
冷静に考えてみると「そこに存在しないものを存在するかのようにイメージする能力」がピンポイントで必要になる場面というのは、日常生活ではほとんど無いんですよね。
アファンタジアを持つ人が何らかの生活上の支障を生じるとしたら、それはアファンタジア自体よりも「アファンタジアに付随する何らかの認知機能障害」であるケースが多いのではないかと想定されます。
この辺は次回以降の記事で紹介する「アファンタジアの判定基準の問題」と「アファンタジアという概念自体の問題」に関連してくる問題です。
今回はひとまずここまでにいたしましょう。
続きの記事はこちらです。
確認テスト
以下Q1~Q3の太字の各文について、誤りがあれば修正しなさい。(解答・解説は下にあります)
Q1: 「心像 (imagery)の障害」と考えられる症候を最初に報告したのはゼーマン (Zeman, 2010)である。
Q2: ゼーマンの症例 (Zeman, 2010)では、後頭葉に病巣があった。
Q3: 先天性アファンタジア (congenital aphantasia)と後天性アファンタジア (acquired aphantasia)では類似した脳部位に原因があると想定されている。
以下に解答と解説があります。
解答・解説
A1: 「心像 (imagery)の障害」を最初に報告したのはベルナールとシャルコ (Bernard & Charcot, 1883)と考えられている。
ゼーマンは「アファンタジア aphantasia」という語を提案した(Zeman, 2010)という意味で重要な位置にいますが、現象として初の報告というわけではありません。
A2: ゼーマンの症例 (Zeman, 2010)では、明らかな後頭葉の病巣は指摘されていない。
ただしfMRIでは後頭葉の一部で健常人より活動低下が疑われています。
これが後頭葉自体の異常に起因するのか、別の部分の病巣によって後頭葉の活動性が変化したのかは、この論文からは結論づけられません。
A3: 先天性アファンタジアと後天性アファンタジアのどちらでも、原因となる脳部位はまだ明らかにされていない。
後天性アファンタジアでは「この部分の障害でアファンタジアが生じた」という個別の報告はありますが、今のところ一貫した見解は確立されていません。
先天性アファンタジアに至っては、そもそも局所的な異常で説明できるのかどうかすら明らかになっていません。
以上の点からも、先天性アファンタジアと後天性アファンタジアを同一視することが出来ると想定することは現状では困難です。
【引用文献】
Bernard, Désiré Antoine François. Un cas de suppression brusque et isolée de la vision mentale des signes et des objets (formes et couleurs). Alcan-Levy, 1883.
Code, Christopher, ed. Classic cases in neuropsychology. Vol. 1. Psychology Press, 1996.
Zeman, Adam ZJ, et al. "Loss of imagery phenomenology with intact visuo-spatial task performance: A case of ‘blind imagination’." Neuropsychologia 48.1 (2010): 145-155.
Zeman, Adam, Michaela Dewar, and Sergio Della Sala. "Lives without imagery–Congenital aphantasia." Cortex 73 (2015): 378-380.
Milton F, Fulford J, Dance C, Gaddum J, Heuerman-Williamson B, Jones K, et al. Behavioral and Neural Signatures of Visual Imagery Vividness Extremes: Aphantasia versus Hyperphantasia. Cereb Cortex Commun. 2021;2: tgab035. doi:10.1093/texcom/tgab035
【参考文献】
Keogh, Rebecca, and Joel Pearson. "The blind mind: No sensory visual imagery in aphantasia." Cortex 105 (2018): 53-60.
Dawes, Alexei J., et al. "A cognitive profile of multi-sensory imagery, memory and dreaming in aphantasia." Scientific reports 10.1 (2020): 10022.
髙橋純一, and 行場次朗. "アファンタジア (aphantasia) に関する研究の動向." 心理学評論 64.2 (2021): 161-174.
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