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それは私の箱じゃありません

ここ数年、カテゴライズについて考えることが多い。さらに妊婦になって、あ、私いまカテゴライズされたな、って感じることも増えた。妊娠5か月の記録で書いたジェンダー問題の延長として、今回は妊娠7か月時点の雑感です。

手段としての分類

例えば自分がどんな服が似合って、どんな色が似合うのかにもカテゴライズは用いられる。パーソナルカラーや骨格診断という分類を自分に当てはめてみることで新しい選択肢が見えてくることがあり、それは楽しい作業だ。

自分と同じ分類が当てはまる人のオススメから見向きもしていなかった色が目に留まったり、新しいブランドを知ったり。逆に似合わない服も「なぜ似合わないか」がなんとなく分かるようになって、じゃあ素材が違うものを探してみようか?他の服との組み合わせ次第ではいけるかも?と、工夫の糸口が見えてきた。

パーソナルカラーや骨格診断は、自分の「好き」を「似合う」を近づけるために有効な手段だと感じている。

ただ、一歩間違うとそれらの診断結果に自分を合わせていくことが目標になってしまう。「さっき見かけたシルバーのアクセサリーが気になったけど、自分はゴールドが似合うからあれを買うのはやめておこう」という具合に、好きな気持ちを封じ込めてしまったり。

こういう分類はあくまでも手段であるはずなのに、いつの間にか目標にすり替わって、本来大事にしたい気持ちを見失ってしまうことがあまりにも多いように思う。

分類される側のもやもや

自分で自分を分類することもあれば自分が他人を分類することもあり、さらに他人から自分を分類される場合もある。そして、後者がいちばん厄介なのではないだろうか。

私は妊娠してから、“妊婦”として分類されることが増えた。これが固定観念がうじゃうじゃと蔓延る巣窟で、かなり窮屈だ。しかもその固定観念、たいてい科学的根拠に欠けている。

例えば体調が悪いと決めつけられる(わりと元気な日も多いのに……)。アルコール入りのお菓子を食べるだけで心配される(通っている産院は少量なら問題なしと言っている)。自分の知り合いがそうだったというだけで、その症状を引き合いに出して「君もそうなんでしょう、大変だね」と言ってくる人の多さ!

私個人よりも、まず妊婦という状態のみで判断される。個人が埋め立てられて、記号化された“妊婦”が独り歩きしている感覚は居心地が悪くて身をよじる。

そういった発言をする人に他意はないし、悪意もないはずだ。対象(私)を理解しようとするために他のケースを持ち出して参考にするはずが、いつの間にか「この人にも自分が知っているケースが当てはまるだろう」にすり替わってしまっているだけ。

でも結果として、固定観念の押しつけになってしまう。善意由来だとしても、受け止める側としてはけっこうキツい。

何も知らないという人には私の情報をそのまま伝えれば良いけれど、「多少の知識がある」人に対してはまず誤解を正してから私の情報を伝えることになる。こう書くと過程が増えるだけのようにも思えるが、その誤解を正す作業にかかる労力といったら……。

個人を見つめる

初対面の人と会うとき、相手の人となりを掴みたいと思って質問を繰り出すのはごく一般的なコミュニケーションだと思う。例えば相手の趣味を訊いて、「読書です」と返答があればインドア派なのかもと予測を立てるし、「カラオケです」と聞けば音楽が好きなのかなと連想する。見た目や雰囲気からも大なり小なり相手を分類していって、人物像を掴んでいく。

でも、誰かのケースが別の人に当てはまるとは限らない。対象が自分の想定するカテゴリーのどれにも当てはまらないこともあるだろう。それを無理やりに当てはめようとしたとき、コミュニケーションが歪む。人それぞれ違うという当たり前が、なぜこんなにも置いてけぼりにされてしまうんだろう。

個人の多様性を尊重するには、時間と手間がかかる交流を経ないといけない。相手が何者か分からないと不安にもなるし、時には自分の思い込みを正すことも必要で、とても面倒な作業だ。だからだろうか。そんなとき、雑なカテゴライズに逃げてしまうことがある。つい、効率を考えたりなんかしちゃって、コミュニケーションをサボってしまう。

自分を棚に上げたように書いているけど、私にもそういう面がある。きっと子育てをしていく中でも、たくさん気づくだろう。気づけるといいな、と思う。

次回、マタニティグッズがあらかた揃った妊娠8か月。

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