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『鏡の中の少女』にみる摂食障害患者の内的世界

Ⅰ.はじめに(問題・目的)


 近年,「神経性やせ症」や「神経性過食症」といった摂食障害に陥ってしまう人が急増している。その背景には,社会の多様化による影響があると考えられる。今まで,女性は家庭に入り育児に専念することができていた。必要であれば近所の人々や親戚も育児に参加しており,安定した育児ができていたといえる。しかし現在では,女性も社会進出するようになり,核家族化も進んでいる。そのため安定した育児が難しく,十分な母子関係が築けない家庭も多くなっていると考えられる。そうした母子関係の問題が成長とともに摂食障害という形で表れてしまっているのではないだろうか。

 「摂食障害」という名称からこの病を単なる「摂食の病」だと考えてしまう人が多いと思うが,松木・鈴木(2006)は摂食障害の本質を「行動の病」であると述べている。松木らによると,「行動の病」とは個人のこころに抱かれた不安や悲しみ,苦悩,あるいは葛藤をこころに置いて悩んでいくことをやめて,行動・行為によってこころから発散,排泄してしまおうとするあり方だとされている。また,対象関係論的視点から見ると,摂食障害において食べ物は「食べ物」として扱われず,個人にとっての「良い対象」あるいは「悪い対象」といった,具体的な対象物として扱われてしまっていると考えられる。つまり,摂食障害患者らは現実世界において自分に価値のある「良い対象」を食べ物に投影することで自身の中に取り入れ,こころに置けなくなった苦悩などの「悪い対象」を食べ物に投影し,それを拒絶・排泄することでこころから閉め出してしまうのだ。「食べる」という行為はもはや単なる栄養素の取り入れという面だけではなく,良い対象の取り入れと悪い対象の排出という面も持ち合わせているのである。そういった意味で,摂食障害は「行動の病」であるといえる。また,松木(1997)は,摂食障害患者らの内的世界では自己が【健康な自己】と【病的自己】に分割され,それぞれがひとつのパーソナリティであるかのようにお互いを排除しながら機能していこうとしていると示している。また,患者らがやせに充足している間の精神状態は【病的自己】が【健康な自己】を排除してしまい,【病的自己】が精神全体を支配してしまっている状態だとされている。この【病的自己】が精神を支配している時,患者らはやせた自分を理想化し,やせを追求すること自体に没頭している自己愛的な状態となる。松木(1997)はこの状態を『病的自己と理想化された超自我対象とを合体させていること』としている。そして,この対象関係のオリジナルは,患者らの内的世界での母子関係であると示している。このことから,早期乳幼児期からの母子関係が摂食障害に大きく関係していることが伺える。

 筆者が摂食障害という存在をはじめて知ったのは小学生の頃であった。バラエティー番組の中で神経性やせ症の女性について取り上げられており,彼女は骨と皮しかないような自分の体に対し「太っていると思う」と言い,「食べたくても食べられない,食べられるのはこれだけ」と,子ども用のチキンステーキの半分を食べていた。当時の筆者は食べることが何よりも好きだったため,なぜ食べられないのだろう,なぜ食べることを拒否するのだろうと,とても疑問に思った。また同時に,世の中には精神的な理由で食べたくない人,食べたくても食べられない人,食べ過ぎてしまう人がいるのだということを知った。

 また,筆者が中学生の頃,仲の良かった友人が拒食になってしまった。つい先週まで一緒に楽しく給食を食べていたのだが,その友人は給食にはほとんど手を付けなくなり,サラダや果物のみを食べてあとは全部残してしまうようになった。筆者が「お腹すいてないの?体調悪い?」と聞いても,彼女は「大丈夫!元気だよ~,朝ごはん食べすぎちゃってお腹いっぱいなの」などと答えた後,きまって「そういえば~」と話を食べ物の話からそらしていた。当時から嘘つかれているなと思っていたが,その友人に嫌われたくないため深くは聞けなかった。また,彼女は給食を全く食べていないにも関わらず,部活では激しい運動をしていた。クラスの違う友人や顧問の先生たちは何の疑問も持っていないようだった。筆者はいつか彼女が倒れてしまうのではと不安だったが,部活を引退するまでそうなることはなかった。

 この2つの体験を通し,筆者は摂食障害,とりわけ神経性やせ症について興味を持ち,その内的世界について明らかにしたいと考えた。そのため,本論文では『鏡の中の少女』という小説を題材とし,神経性やせ症患者の内的世界について対象関係論の視点から読み解いていくこととする。


Ⅱ.方法


 本論では,1987年に集英社から出版された小説「鏡の中の少女」を臨床素材として使用した。


Ⅲ.本論(物語のあらすじ)


主な登場人物

・フランチェスカ・ルイーズ・デートリッヒ
バレエを習う15歳の少女。ニューヨーク州マンハッタン在。この物語の主人公。

・ケサ
拒食症の病理の中核にあるフランチェスカの自己部分。

・ハロイド・デートリッヒ
無頓着と癇癪を交互に起こす父。

・グレース・デートリッヒ
ヒステリー気味で自罰的な母。

・スザンナ
自由奔放で父と喧嘩ばかりしている姉。カリフォルニア在。

・グレッグ
ハーバード大学に通う優秀な兄。

・マダム
バレエ教室の先生。

・ゴードン医師
フランチェスカの小児科の先生。

・サンディ・シャーマン
心理療法家。フランチェスカ(ケサ)の主治医となる。

・ライラ
病院で同室になった少女。強気な性格。

・マーナ
入院中に出会った拒食症の少女。過食と嘔吐を繰り返している。病棟で看護婦のように働いている。


(1)ケサの誕生

 この物語は15歳の少女フランチェスカ・ルイーズ・デートリッヒ(以下フランチェスカ)が,ケサ(拒食症)となり,周囲の言葉には耳を傾けずにダイエットを続けていく生活を中心に描かれている。

 バレエのレッスン中,「なかなか,結構」とマダムに言われたと思ったフランチェスカだったが,鏡の中の自分はバケモノのように醜く太っていると気づくのだった。レッスン後,マダムに「スリムで引き締まっていなければ,絶対にダンサーにはなれない」と言われたフランチェスカは,頭の中でその言葉が鳴り響くのを感じていた。『ワン,ツー,スリムで,引き締まった,スリー,フォー,なかなか,結構』というビートを刻みながら居残り練習をしていたフランチェスカの中から,新しい女の子が生まれ出た。『ケ・サ,ケ・サ。』そして,デブなフランチェスカは死んで,完ぺきなケサとなって生まれ変わったのだった。

 ケサとなったフランチェスカは食べることを拒んだ。食べなければならない時には少量を口に運び,指で椅子を叩きながら『ケ・サ,ケ・サ。』と魔法の呪文を唱え,食べたあとは洗面所に駆け込んで吐き出した。胃の中がもとどおり,からっぽとなり満足感を感じたケサは,テーブルに戻り「デザートはなにかしら」と聞くのであった。テーブルでの話題が姉と兄のことで持ち切りになったとき,ケサは気づかれないように,静かに呪文を唱え始めた。すると父の姿はどんどん小さくなっていき,やがて話し声も全く聞こえなくなっていった。

 ケサはある自習を始めた。それはすごくやせているモデルの写真を切り取ることであった。ケサはモデルの写真を1番下が1番軽いモデル,そしてだんだん重くなって1番上が1番重いモデルになるよう,体重順に重ねていった。モデルよりやせたら,そのモデルの写真を捨てていこう,ケサはそう思った。そして,『すぐにあなたたち全員よりやせてみせる』と誓った。『それで,わたしの勝ちよ。やせている方が勝ちなのよ』ケサはそう思った。

 フランチェスカはケサになって1週間で1.8キロやせた。ある日,ケサはけいこ場から出ていくときにマダムから呼び止められ,「特別な話がしたいからレストランへ行きましょう」と言われた。レストランへ行く道中,ケサは自分がマダムになれたらと考え,マダムの中にすっぽりと入りたいと思った。その中なら,すごく安心できるような気がしたのだ。レストランで,ケサはマダムからジェフリーの夏期特別講習のこと,そしてダンスにすべてを捧げる決意があるか,もしあるならば両親の承諾後オーディションに推薦すると言われた。ケサはオーディションと言われてもピンとこなかったが,マダムに選ばれたことが大事なことだと思った。『ケサはマダムのお気に入り,マダムの子分,マダムの子供。』やっと姉や兄の心配ではなく,自分のことだけ気にかけてくれる人が現れたのである。

 しばらくしてケサのやせた身体を目の当たりにした母は,ゴードン医師に診てもらうことを決心した。ケサは40.2キロまでやせていた。ゴードン医師に生理の有無を聞かれたケサは,生理のせいで秘密が漏れたことに怒りを覚え,生理が始まった日のことを思い出した。ケサは生理が始まったとき,自分が母親なしではやっていけないちっちゃな子ではなくなってしまったのだと母にバレたら,母は愛してくれなくなると信じこんでいたのだった。

 母はゴードン医師に「あなたはフランチェスカの母親なのですから」と言われた際,フランチェスカは産む予定じゃなかったと思ったが黙っていた。母はフランチェスカが生まれるのを望まなかったから,罰を受けているのだと思ったが,そんなことはないと思いなおした。母はフランチェスカを姉兄同様に愛してきた。フランチェスカはいつだってとてもいい子だったから,愛すのはとても簡単だったのである。

 夕食中,ケサは父に怒鳴られたため急いで食べ始めたが,突然,『フォークに乗せた食べ物が唇に触れないこと』がとても大切なことに思えてきた。唇に食べ物が触れるなんて汚らしいと思ったのだ。そのため,ケサはフォークに乗せた食べ物を歯で咥えて直接口の中に入れ,ひと口ごとにナプキンで口をぬぐった。食べ終えたケサは満腹感のほかに,もっと他の恐ろしい感覚を感じた。食べてしまったから何か恐ろしいことがおきるのだと思ったケサは,整然とした動きで洗面所に行き,嫌々食べさせられたものを吐き出した。

 その後,両親がケサのことで口喧嘩しているのを耳にはさみ,昔から両親が闘う相手は姉であったことを思い出した。両親はいつだって姉と闘うことで忙しく,フランチェスカに注意を向けるひまさえなかった。ケサはほうっておいてほしいと思ったが,両親が自分のことでケンカしていることに少しいい気分になった。

 ケサは部屋に戻り,どれくらいほっそりしたかテストしようと思った。ケサはおなかに手をおき,自身の骨をなぞっていった。『骨って,好き。骨って,きれいよね。』ケサは肋骨を下から順番になぞっていき,そして3番目の骨がはっきりしてないことに気づいた。ケサは頭を起こし,胸を見た。『小さくなってきたけど,まだダメ。タプタプしすぎ。』ケサは国語の宿題の提出が明日までだったことを思い出したが,タプタプした胸と3番目の肋骨についているぜい肉のことを考えたら,電気に触れたみたいな恐怖を感じた。ケサは飛び起き,ぜい肉の恐怖をふりはらうために死にもの狂いで踊りだした。


(2)ケサの決意

 ケサは学年が2つ上で人気者のジュリアに誘われてパーティーに行くが,それはマリファナや酒がまわされているひどいパーティーだった。ケサを誘ったジュリアはパーティー会場に着くなりケサを見捨てた。ケサはジュリアを最悪なインラン女だと思い,怒ってパーティーから帰った。そもそもケサはパーティーが苦手で,友達付き合いの類も苦手だった。幼いころから友達になりたいと思うくせに距離を置いてしまって,うまくいかずに躍起になってしまうのだ。帰りながらケサは子供の頃によくやった宮廷ゴッコ遊びを思い出していた。ケサは女王であり,友達はケサの侍女となる。ケサはみんなに名前を付けていき,自分には最高の名前である『フランチェスカ・ルイーズ』という名前を付けるのである。しかし,フランチェスカ・ルイーズはもう死んだため,この空想ももう効き目がないとケサは感じた。

 その夜,ケサはマダムの夢をみた。〈ケサとマダムは2人で映画を見に行く。劇場の正面には幕のおりたステージがあり,観客席には家にある見なれた家具が置いてあった。幕が上がるとマダムは客席ではなくステージに立っており,ステージの一方のそでにはジュリアが,もう一方のそでには両親が立っていて,全員レオタードを着ていた。マダムがケサを誘うように踊りだすと,ジュリアや両親ももたつきながら小さくステップを踏み始めたが,次第にマダムについていけなくなり,マダムの動きが高度に華麗になるとほかの踊り手が少しずつ小さくなっていった。突然,ジュリアのスポットライトが消え,一瞬遅れて両親のスポットライトも消えた。マダムは1人で踊っていて,ずっとケサを招いていた。マダムを照らすライトは次第に明るさを増し,光がどんどん強くなっていき,そして爆発した。まわりが暗くなり,ケサはたった1人,闇の底へ落ちていった。〉

 目覚めたケサは,夢の内容は思い出せなかったが最後の恐怖だけを生々しく感じていた。マリファナのせいだと思ったケサは,もう2度とパーティーへは行かないと決心した。ケサが必死で闘いとった自分を律する意志の力を,危険にさらすわけにはいかないと思ったためである。


(3)ケサの儀式

 翌朝目を覚ましたケサは,鏡の中の自分と向かい合って肋骨を下から数えていった。しかし,胸のふくらみによって肋骨が隠れてしまう。鏡の中にいるのはフランチェスカだと気づいたケサは,右手で左の乳房を思いきりつねりあげた。「フランチェスカ・ルイーズ女王は弱虫の女王。おまえは破滅したの。死んだのよ」ケサはつねりあげる手をゆるめず,鏡の中の少女は泣いていた。「さよなら,フランチェスカ・ルイーズ。永久にね」

 その後,ケサは洗面所へ行き,念入りに歯を磨いた。ケサは,自分の歯は食べ物なんかにはもったいないほど清潔だと感じ,歯を汚す食べ物なんてもういらないと思った。そして,汚らしそうに便器を見た。『便器は清潔じゃないから,どんなことがあっても絶対触りたくない』と思い,ケサは両足を大きく開き,慎重に便器をまたいで用を足した。今までケサは母の言うと通り,自分専用の洗面所でも公共のものと同じようにふるまってきたが,急に,湿った不潔な陶器に身体を触れさせないようにすることが,何よりも大切なことのように思えてきたのである。

 ケサは再びゴードン医師の診察所へ行き,そこで36.8キロまで体重が減っていることを咎められ,「正常な食生活に戻れないようなら,食欲がわいてくる薬を処方しましょう」と言われる。薬と聞いてケサは恐ろしくなった。ケサは否応なしにフランチェスカにとってかわられ,やがて意志の強いケサから肥っておどおどしたフランチェスカになってしまうと思ったからである。

 ゴードン医師はケサの様子からケサは神経性拒食症ではないかと疑い,母にその旨とともに,これ以上体重が落ちるようであったら入院させなくてはならないということを伝えた。ケサは押し黙って話を聞いていたが,神経性拒食症だとかいう病気なのだと言われたとき,勝ったと思った。ケサはフランチェスカが死んでしまったことやケサの新しい自我,新しい身体,新しい行動規範を見破られることを恐れていた。しかし,母もゴードン医師もケサを病気だと思い込んでいるため,ケサとケサの新しい素敵な身体は安泰だと感じたのだ。しかし,これ以上体重が減るようであれば入院しなくてはならないとゴードン医師の言葉は,ケサの心に突き刺さった。ケサは動くことも抵抗することもできず,マリのようになるまで食べ物をつめこまれて肥らされる自分の姿を想像し,パニックになった。その後の話はまともに聞いていられる状態ではなかったが,ゴードン医師と母が入院させると脅していることと,精神科医にかかれば入院しなくていいらしいことだけは理解した。

 母は娘がすすんで精神科医にかかろうとしたことで安堵したものの,アパートにつく頃にはその気持ちも怒りに変わっていた。診察室でのフランチェスカは道理をわきまえているように見えたため,バカバカしい食事のしかたやトイレでしていること,飢え死にするかもしれないのに食べようとしないのはすべて母親に対する嫌がらせなのだと思ったのである。

 帰宅後,ケサがコップ1杯のミルクしか飲まないと言い張ったとき,母は金切声をあげてケサに詰め寄った。ケサはこんなに怒っている母は初めて見たが,気にせずに,指で腿をトントン叩き,魔法のおまじないをした。『ケ・サ,ケ・サ。』そうすることで,ケサは安心感と,母親の怒りなんかものともしない優越感を感じた。

 その後,父と母は話し合い,ケサをスミスという精神科医のところへ通わせることにした。


(4)ケサの変化

 ケサはスミス医師との6回目の面接中,「寒いのは,身体の脂肪がなくなってしまったからだ。最近,いつも冷え切った感じがするのはそのせいだ」と言われ,先生はフランチェスカを見ていたと思っていたが,実際はケサを観察していたことに気づいた。ケサはもうここには2度とこないと決心して,面接室から出て行った。

 その日の夕食後,ケサが日課の検査を始めると,おなかの所どころに毛が生えているのを見つけた。ケサはパニックに陥ったが,体重が100gも増えてないことを確認すると,おなかの毛が素晴らしいものに思えてきた。おなかの毛は毛皮のようで,柔らかくて,なめらかで,白い肌に黒が映えると感じられた。ケサは昼間,スミス医師に言われたことを思い出し,みっともない皮下脂肪なんていらない,この毛が自分を温めてくれるのだと思った。

 ケサは夕食後に2時間ダンスをする予定だったが,この身体の進化のおかげで守られていような気がして,眠くなった。宿題は数週間分遅れていて,もう言い訳もできなかった。先生たちはケサの言い訳に一応付き合ってくれたが,全部どうでもいいと思えてきたケサは,おなかの柔毛に手をあて,そのまま眠りに落ちた。

 ケサの成績は散々なものだった。両親はケサの様子を聞こうとスミス医師に連絡したが,そこでケサがもう1カ月半も面談を休んでいたことを知った。父は専門家の手助けを必要ないとし,自分の手でフランチェスカを助けることを決意した。その決意は本気で,ケサもそれを感じていた。ケサは父が自分のことを助けたいと言っていることをうれしく思った。父の助けや,気遣いをずっとほしいと思ってきたからだ。しかし,今頃になって助けてもらうのは危険すぎるとも感じたていた。父にはずっとびくびくしてきたし,いつまでもこのまま優しい父のままでいてくれるとしても,いつまでも甘えていられるわけではないと思ったのだ。父はケサに「以前のようなフランチェスカに戻ってほしい」と伝えたが,ケサは弱虫でおどおどして,いつも子供みたいに誰かに頼って,自分で自分をコントロールできず,他人に振り回されるフランチェスカなんて大嫌いだと思い,それを父に伝えた。父はフランチェスカに必要なのは人間としての分別だと思い,昔馴染みのウォンドルマン医師に1度診察させることを決め,それまでフランチェスカの食事の管理は自分で行うことにした。そして,「もう少し体重を増やさないのなら,バレエ教室はやめさせる」とケサに伝えた。

 それからの1週間はケサにとって,冷酷非情の父主演の悪夢だった。過去数カ月,ケサは念入りなプロットを立てて自分自身をコントロールしてきたが,父が身を乗り出してきてからは,いろいろアレンジすることができなくなり,何もかも調子が狂ってしまった。ケサはコントロールを失い,怯えきっていた。

 ウォンドルマン医師との面談は最悪なものだった。ウォンドルマンは自分から好きこのんでこの病気になったケサにはらわたが煮えくり返り,語気の強い言葉で分別というものを言って聞かせ,入院させると脅した。ケサは涙をこらえることができなかった。

 帰りのタクシーの中,父は機嫌が良かった。頭を抑えつけておくという自分のやり方は正しかったし,分別を説いてくれる昔気質の医者に連れて行ったのも正しかったと思ったからだ。

 ケサは,こんなふうに自分を脅す道具になってしまった食べ物のことを考えていた。念入りに検討して決めた量以上は食べたくないが,それだけではなく,それ以上食べられなくなってきていた。ケサは父に「先生の言うことが聞けなかったらどうするの」と聞いたが,返ってきたのは「ウォンドルマンの注意くらい守れるだろう。でないと,自分が無理やりにでも食べさせる」という返事だった。

 その後,父はケサの食生活を監督し続けたが,数日たっても体重計の目盛りが下がっていき,怒りは爆発寸前だった。ケサは34キロまでやせていた。突然,父はスミス医師の言っていたことを思い出した。無理やり食べさせたところでケサは吐き出してしまっていたのだと気づいたのである。父はやり場のない怒りを感じ,ケサを部屋に引きずっていった。父は「もうバレエ教室にはいかせん。ステレオも電話もだめだ。おまえが罰を欲しいというなら罰をやろう。ガイコツのまま,退屈してればいい」と言い,力いっぱいドアを閉め,出て行った。

 ケサはドアに向かって,憎々しげに顔を歪めた。そして,憎しみをこめてドアをにらみつけながら,誰が相手でもドアごしでないと怖くて,いつだって心の中に建てたドアばかり見つめていたことを思い出していた。


(5)シャーマンとの出会い

 ケサは歩きながら,もうレッスンには来れなくなったと伝えたときのマダムが,全然気にしてない様子だったことを思い浮かべていた。多分,夏期講習のオーディションでうまくできなかったからだとケサは思った。例の儀式のおかげでうまく切り抜けられたと思っていたが,審査員の見解は技術的には充分だがギスギスしていて優美さに欠ける,というものだった。不思議なことに,ケサは選ばれなかったことに予想していたほど落ちこまなかった。そして,今日のマダムと似ていると感じた。『あの人は,わたしがいなくなっても,全然気にならないみたい。わたしは,悲しいはず。』ケサはそう思い,悲しんでみようとしたけれど,どんな感情もわいてこなかった。『わたしはもうなにも感じないんだわ。どっちみち,肥るよりダンスをやめる方がいいけどね。』

 帰宅したケサは下着姿で日課の検査をしていたが,それを母に目撃されてしまう。『好きなだけ,怖がればいいわ。わたしは今の外見が好きなんだから。』母は変わり果てたフランチェスカの身体にショックを受けた。体重を測ると34キロになっていた。ケサの頭にパッと,雑誌から切り取ったモデルの写真が浮かんだ。『優勝は…34キロ!』母はゴードン医師に電話をかけた。ゴードン医師は,ケサの治療をサンディ・シャーマンという心理療法家に任せてみないかと母に伝え,そのことについて詳しく話がしたいから翌日の3時にケサと来てほしいと言った。

 翌日の昼食後,ケサは「ダンスをさせてくれないから全然運動していない」と言い,散歩に出かけた。ケサはゴードン医師の予約をすっぽかすつもりはなかったが,6月の蒸し暑い日に出かければ,街にどのような障害物が待ち受けているかは考えていなかった。

 公園の中を歩いて行こうとすると,食べ物の屋台が目に入った。ケサは食べたい気持ちと高いカロリーの間で混乱し,自分がどこにいるのかわからなくなった。『自制心を取り戻さなくちゃ。』ケサは深呼吸をした。

 来た道を引き返しかけたとき,ケサはゴードン医師の予約を思い出した。予約は何時だったか,思い出せなかった。母が言っていたとき,ケサは昼食のカッテージチーズに気をとられていた。ゴードン医師の待合室についたのは3時45分だった。

 診察台に腰掛け,「心配していた」とゴードン医師に言われた瞬間,昔の礼儀正しいフランチェスカが顔を出した。フランチェスカが「すいません。時間の感覚がわからなくなっていたんです」と言うと,ゴードン医師は「いいのよ。こうしてここに来れたのだから」と返した。

 ケサの体重は前回よりも減っていた。ゴードン医師は「あれこれ言う気はありません。これ以上やせたら,すぐ入院です。今日でもいいけれど…」と言った。ケサは混乱してきた。『今日入院させられるの。そんなこと,できっこない!』しかし,ゴードン医師は「その前に一度,シャーマン先生に会ってもらいたい。シャーマン先生とは連絡を取り合うので,今度は予約をすっぽかすわけにはいきませんよ。それから,週に1回はわたしが診ます。はっきり言っておきますが,もし少しでも減ったらその日のうちに入院です」と続けた。ケサは右から左へと聞き流した。ここ数カ月,入院させると脅されてきたが,ケサはうまくみんなを出し抜いてきたため自由のままだった。ケサは,次のシャーマンという男がどんな人なのか,心配になってきた。

 相談室で初めてシャーマンを見たとき,チンケな男だとケサは思った。シャーマンは自己紹介をすると,ケサを診察室へ促し,「すわって」と言った。診察室には椅子やソファが沢山あったため,ケサは「どこに?」と聞いた。すると,「好きなところに」と返ってきた。ケサが部屋の真ん中に立っていると,シャーマンは適当なところに腰を下ろした。ケサはその向かいに座ったけれど,目は伏せたままカーペットを見ていた。ケサが「シャーマン先生」と呼ぶと,シャーマンは「皆にはサンディと呼ばれているんだ」と答えた。「君はなんて呼ばれているの?」と聞かれたケサは,「ケサ」とためらう間もなく返した。

 面接中,シャーマンは「もし君の考えや気持ちや不安を分かち合っていくことになれば,君はもう,ひとりぼっちだと感じなくてもよくなる」とケサに伝えた。ケサはびくっとした。『どうして孤独感や,みんなとの距離や,誰かに近づくのは危険だからだれか近づいてくると不安になるってこと,知っているんだろう。』そう思った。

 面接が終わる頃,シャーマンに「週2回の面接をスタートさせるべきだと思う?」と聞かれたケサは肩をすくめたが,「君が決めるんだ」と言われたため,とても低い声で「来ようと思います」と答えた。こうして,ケサとシャーマンの面接が始まっていった。


(6)シャーマンとの治療

 ケサは,食欲や体重についてはしぶしぶにしか話さなかったが,シャーマンのことを信用し始めていた。そして,そのことをケサ自身も感じていたが,人とのつながりはケサを不安にした。

 水曜,ケサはシャーマンの相談室の前に立ち,その建物を見つめていた。大きな灰色の建物は何かケサを怯えさせるところがあった。ケサは色々な理由付けをしてビルの中に入ろうとしたが,結局できずにそのまま家へ帰ってしまった。

 その夜,シャーマンから電話があった。シャーマンはケサに「もし僕と面接を続けたいと思ってくれているなら,約束を守ってくれるか,具合が悪くて来られないと電話してほしい。来週の木曜,いつもの時間に来ないのなら,そのときはきみをスケジュールから消すよ」と伝えた。『きみをスケジュールから消すよ』その言葉はケサの耳の中で,荒々しく鳴り響いた。まるで,彼の言葉がケサを破滅に追い込むように。帰宅した父は,ケサがまた予約をまもらなかったことに対して怒りをあらわにした。「フランチェスカ。良くなりたいのか?死ぬまでこんなやり方を続けていくつもりか?」そのとき,父の怒鳴り声がシャーマンの穏やかできっぱりした声と入れかわり,ケサはまた,自分で自分をコントロールしていると感じられるようになった。ケサは父の非難にはなにひとつ答えず,父に背を向け部屋を出て行った。

 ケサは次の予約には来たが,もう手遅れだった。ケサは32.6キロまでやせていた。翌日,ゴードン医師の判断によりケサは入院することになった。ケサはすすり泣きながらシャーマンに電話をかけた。「入院なんてしたくないわ。もうおしまいって感じがするの」シャーマンは,「ちっともおしまいなんかじゃないよ。身体の具合がよくあったら退院できる。体重を増やせって言ってるわけじゃない」と答えた。シャーマンは同じ失敗を繰り返さなかった。電話の向こうから聞こえるのは絶望にうちひしがれたケサのすすり泣きだけだった。シャーマンの話にはどんな脅しもないということが,かえってケサの気持ちを波立たせ,ケサは激しく泣き出した。「お願い,お願いですから。病院に入れないで」シャーマンはもう一度理由を話し,電話を切る頃にはケサも泣き止んでいた。『お願い,お願いですから』相談室を出てからも,その言葉が頭の中でシャーマンの裏切りを非難するように,こだまのように響いていた。

 その夜,シャーマンはうまく寝付けなかった。4時近くになって寝つき,悩みに満ちた夢をみた。〈やたらと広い小屋の中にいて,丸天井の真中から網が吊り下げられている。見上げると,網は魚ではなく,やせおとろえた少女たちの裸死体でいっぱいであった。小屋の向こうの方は,なにかずいぶん活気があって,シャーマンはそちらに歩いて行った。そこではややこしいことが行われていた。少女たちはまず絞首刑に処され,それからその死体は蝶つがいのついた竿で網の中にはじき飛ばされる。男は少女の首にロープをかけるのはシャーマンの役だと言った。抵抗し,嘆願しても誰も耳をかそうとしない。「好きでも嫌いでも,ホラ,お前の仕事なんだ」〉

 それから数週間,シャーマンはケサに会うたびに,必ず同じ夢をみた。


(7)入院生活の始まり

 ケサは病室を寒いと感じたが,エアコンの操作方法がわからなかった。『バカみたいに寒いわ。拒食症の患者はいつだって寒くて凍えてるのよ。』ケサが自分のことを拒食症だと考えたのはこれが初めてだった。ケサは入院したことで,結局自分は病気なのだと認めだした。

 ケサは主治医の診断後,家に電話をかけた。母に病院から出してもらうよう仕向けるためだった。その間,両親は外食をしながら過去のことを振り返っていた。母は,姉には兄をぶたないように,兄にはフランチェスカをいじめないように叱っていたことを思い出していた。両親が帰宅した瞬間,電話のベルが鳴り響いた。母は直感でこれがフランチェスカからの電話だとわかり,胃が重くなった。ケサは病院がいかに酷い所かを母に説明したが,母が退院に協力的ではないことがわかると,受話器を叩きつけ,枕に顔をうずめて泣いた。その後,再度電話が鳴り,今度は父がでた。父は手短に話を終えると受話器をテーブルの上に置いた,その日はもう電話のベルが鳴ることはなかった。

 その後,ケサは病院食に手を付けなかったことから,補助看護と同室の女の子であるライラから『スキニー』だと言われてしまう。補助看護は「あなた以外にももう1人スキニーがいる」と言って病室から出て行った。ケサはライラに「スキニーって呼ばないで」と言ったが,ライラは「ならそんなバカなことは止めなよ。そうしたらスキニーなんて呼ばないよ」と返すのだった。

 翌朝,母はシャーマンに電話をかけ,そこで「ケサに操られないように」と言われる。どういうことか聞き返すと,「ケサはちゃんとした理論で議論しているように見せているだけです。ケサ自身,自分ととっくみ合っていて,家族まで巻きこんでいるんです。お2人を操らないでいられないのはケサの問題のひとつです」と返した。その後,「夫と2人でお会いできますか」と聞くと,シャーマンは「家族面接はとても役立つと思います。ケサがなんと言ってもやりたいと思いますし,ケサだって納得するでしょう」と答えた。

 その日の午後,ケサは再度母に電話をかけたが,うまく操れなかったため怒って電話を切った。その後,病院内を散歩していると明らかにスキニーの女の子をみつけた。その子はケサの部屋までついてくると,「わたし,マーナっていうの。あなた,拒食症でしょう」と言い,なれなれしく部屋に入ってきた。マーナはケサに過食のこと,吐き出すことを説明し,ケサはそれを気持ち悪いと感じた。そして,マーナは病気のことをちっとも怖がっていないことを知り,誰がケサのパニックを理解してくれるのだろうと思った。ケサは,誰もわかってくれないし,誰も助けてくれないと感じた。

 ケサは面接で,シャーマンがケサの気持ちをよくわかっていることに驚いたけれど,入院させるように仕向けたのはサンディなのだから,こらしめなくてはいけないと堅く決心していた。しかし,しばらくして不思議なことがおこった。ケサは,気持ちをわかってくれる人をこらしめることにつかれてしまったため,もうこんなことはやめようと思ったのだ。ケサの足の裏にはもうクッションとなるような脂肪がないため,歩くたびに激痛が走った。しかし,シャーマンを失うことの恐ろしさから考えれば,こんな痛みなんて何でもないと思い,懸命に面接室まで歩いていくのだった。


(8)闘病生活

 ケサは入院4日で1キロ減り,31.6キロになってしまっていた。そのため,主治医から高カロリー輸液を始めなくてはいけないと説明された。ケサは「ただ,食べられないだけ」とすすり泣いたが,主治医は「生きるために充分な栄養をとるためなんだ」と説明した。栄養という言葉が急に圧倒的な力を持ってケサの胸にぶつかってきた。『肥らされちゃう。どんどんカロリーを入れられて,まんまるの大きなバケモノになっちゃう。もう素敵な骨っぽい身体じゃなくなってしまう,ケサはこの世からいなくなってしまう。』主治医はその間も説明を続けたが,ケサは恐怖の霧に包まれてしまったため,主治医の声は霧の向こうからおぼろげに聞こえてくるだけだった。主治医のこえは次第に小さく消えていき,ケサはフランチェスカ・ルイーズのことを思い浮かべた。空想の女王。友達を思い通りの人間に,世界を望み通りのものに変えることができる女の子。それから,ケサのことを考えた。無駄のない完ぺきな動きをする少女。肉体の醜さから解き放たれ,ほかの人やほかの人の考えに全然束縛されず,あらゆるものから自由な女の子。『でも,ケサがわたしをワナにかけ,病院のみすぼらしいベッドにつないだんだ。救いのないガイコツになって,自分の意志ではどうしようもない力に抑えつけられ,無理矢理栄養をとらされようとしている。』ケサは主治医が部屋を出ていくまで全身の力を使って泣くのをこらえ,出ていった瞬間泣き出した。ライラはケサを慰めたが,ケサがいまだに肥りたくないと言うため,「あんたは頭がどうかしてる」と言ってテレビの電源を付けた。

 その日の晩,ケサはよく眠れず,午前2時に目が覚めた。夢をみていたがどんな夢か思い出せず,今が夢の中なのか夜明け前なのかわからず,ケサは時間の感覚がおかしくなっていた。ケサは朝になったら間違いなく管を入れられてしまうことを思い出し,パニックを起こした。ベッドから出ようともがいたが,寝返りを打つと痛みが全身に走った。そして足が床についたとたん,痛みが足全体に走り,ケサは部屋がまわるのを感じながら何もわからなくなっていった。

 翌朝,目が覚めるとケサの腕には点滴がつけられていた。『ポタ,ポタ,ポタ,デブ,デブ,デブ。』しずくは情容赦なくケサの中に流れ込み,一滴,また一滴とケサの身体を満たしていった。ケサは点滴を食い止めようと腕の筋肉を緊張させたが,液は流れ続けた。ケサは負けた。やせているほど勝ちのはずだった。ケサは間違いなく勝つはずだったのに,こうして点滴を始められてしまい,もう勝てなくなってしまった。点滴の液はケサの身体の中に流れ込み続け,救いのない涙は静かに流れ落ちて行った。

 手術の日になった。ケサは外科医の「この患者…」という発言に腹を立てた。『この患者ですって!わたしは患者,わたしはわたし,わたしはケサ。わたしはフランチェスカ・ルイーズ。私は1個の人間。』そして手術が始まった。ケサは必死に涙をこらえた。『ママ来て,ママ来て。』ケサは心の中で叫び続けた。手術が終わると,ケサは恐れていたことが現実になってしまったと思った。医者はケサに管をつなぎ,管はケサを病院に縛り付け,そして強制的に肥らされる。ケサがシャーマンに「わたしを何キロくらい肥らせるの?」と聞くと,「肥らせるんじゃない。医学的な立場で君を救うんだ。33キロくらいから34キロくらいになるまでそれはつないでおくつもりだけど,いずれ自分で食事をとって体重を増やしていかなければいけないよ」と返ってきた。ケサはベッドでシャーマンの言葉の意味を考えた。自分の身体を管理できなくなったパニックと,誰かが自分にかわって管理してくれる安心感との間で,どうしたらいいのかわからなかったが,管理してくれるのが父ではなくシャーマンだったことは嬉しかった。シャーマンは1度もケサに怒ったことがなかったし,無視したこともなかったからだ。

 シャーマンはケサに「体重に対する強迫概念はきみの本当の問題じゃないってことに,そろそろ気づかないといけない。体重が増えることは,きみが本当に怖れていることじゃないんだ」と言い,ケサは怯えだした。ケサがどういうことか聞くと,シャーマンは「きみは体重が増えるのを本気で怖がっている。だけど,その恐ろしさはきみの頭のどこか別のところからきていて,それがなんなのかわかったら,きみはこの恐ろしいワナから自由になれる」と答えた。この言葉には安心感があった。思い出せる限りで,ケサは初めて『安心だ』と感じた。しかし,すぐに恐怖感が頭をもたげてきて,不安に変わってしまった。「体重が増えるのはやっぱり嫌」というケサに,シャーマンは「わかってる。でも,時間がたつにつれて怖くなくなってくる」と伝えた。ケサは,体重が増えると思っただけで怖いことを,サンディはどうして知っているのだろうと思った。サンディはケサが食べたくないから食べないのではなく,怖いから食べられないのだとわかっている。

 サンディが帰った後,ケサは誰かを大事にすることや誰かに大事にされることを考えるうちに,姉がカリフォルニアに出発した日のことを思い出した。その日,両親は出来る限り姉をつかまえておこうとし,姉もいつまでもみんなに注目されていようと,別れを引き伸ばしていた。姉が出発した後,ケサは両親と一緒に残されたと思っていた。しかし,両親がまだ姉のことで言い争っているのを聞いたとき,ケサは両親と一緒に残されたのではなく,ひとりぼっちで残されたことに気づいたのだった。


(9)儀式の再開

 高カロリー輸液が始められた日,ケサは管で液体の容器に繋がれているだけでなく,病院にも繋がれているのだと気づきながら,以前よりもっと守られていて安心できるような気がした。そして,いつもの儀式が再開された。

 ケサは食事についてくるプラスチック製の食器類を集めるようになった。同様に,砂糖の包みも集めていた。ケサにとって儀式はなじみのゲームだったけれど,食べ物をくすねることや集めることは新しいゲームだった。翌日,ケサは昼食のツナサンドを四つに切り,そのひと切れを食べて残りは全て砂糖やプラスチックの食器が入った引き出しにしまった。空になった盆はベッドの下に隠した。そして看護婦を呼び,「わたし,昼食をもらってないの」と言った。

 2日後,ケサが部屋に戻るとライラがしかめっつらで「ここらへんで変な匂いがする」と言い,看護婦を呼んだ。看護婦はケサに食べ物を隠してないか聞いたが,ケサは「いいえ」と答えた。食べ物の在処はすぐに見つかり,看護婦は規則違反だとケサに言った。ケサは泣きながら「ここは最低の監獄よ。囚人と同じようにわたしを扱うわ。なんの権利もないのよ」と叫んだが,看護婦は冷静に「自由やプライバシーや権利を与えても,あなたたちは飢え死にしてしまう。死んでしまってはその権利になんの意味があるの?」と返した。ケサはなにも言わなかったが,その表情から打ちのめされたことがわかった。

 シャーマンとの面接時,ケサは「まるでバケモノみたい。わたしはここの人間じゃないわ」と泣きじゃくりながら言い,「病院だけじゃないわ。どこでもよ。わたしには居場所がないの」と続けた。ケサは,ダンスのレッスンでマダムを喜ばそうと頑張れば頑張るほど,ほかの生徒たちがケサを笑っているような気がしていた。春にジュリアと行ったパーティーのこともよみがえってきた。「どこにも居場所がないの」ケサは泣きながら繰り返した。シャーマンは「頭の中で居場所がないと感じているから,どこに行ってもそう感じるんじゃないかい」と返したが,ケサは「違う,違う,違う」と叫びながら否定した。サンディは待っていた治療の糸口がやっとつかめそうだと感じながら,「家でも居場所がないって感じたのかい?」と聞いた。「家!一番ひどかったわ。あの人にはいつだって居場所があったわ。なんでも望んだとおりできたわ。いつだってママやパパは気遣いみたいになってたわ。でも,それでもあの人には居場所があったのよ」ケサはそう言った。シャーマンが「あの人って誰?」と問うと,ケサは泣きじゃくりながら「スザンナよ!なんでわたしに,あんな姉さんがいるの?」と返した。それから,「彼にだって居場所があったのよ。なんで彼にも居場所があるの。グレッグみたいに,どこにでも自分の居場所をつくっちゃう名人はいないわ」と続けた。

 シャーマンはケサに「どう頑張ってもみんながきみに居場所を作ってくれないのなら,きみはどんなふうにみんなとつきあっているんだい?」と尋ねた。どういうことかケサが聞き返すと,シャーマンは「きみは居場所がないことがすごく不安で,だから,かえって居場所なんかいらないって態度をとるんじゃないかって,そう言ってるんだよ」と返した。そして,「でも,もっと簡単なやり方があると思うんだ。みんなから自分を守る,居場所を作ってくれる,魔術のようなトリックをするんだ」と続けた。ケサはシャーマンを疑わしそうに見ながら「そんなもの?」と聞くと,シャーマンは「もし僕が,自分の食べ物をあるやり方で切ったら,特別なものだけ食べていれば,あるいは食べなければ,他人の敵意から自分を守ることができるかもしれないとかね。それで,うまくやっていけないようなことから自分を守るんだ。だけど,そうなるとワナにかかる危険がある」と返し,ケサがどんなワナが聞き返すと,「自分を守るためにトリックを使いだすと,もっと守りを固めるためにトリックを増やしていくだろう。そのうち,なんのためにそんなトリックをしていたのか,わからなくなってくる。でも,やめたら安心できなくなってしまう。それで,すぐに生活はトリックだらけになってしまって,ひとつでもやりそこなえば恐ろしくってしかたなくなってしまう」と言った。ケサは床を見つめたまま,やっと聞き取れるほどの低い声で「わたしはトリックを使っているわ。わたしの毎日は魔術のようなトリックなの」と返した。どうしたらトリックを使うことをやめられるのかシャーマンに問うと,「僕に話すことから始めないとダメだ。話すことが,儀式から抜けでる第一歩だと思う」と返ってきた。ケサは信じられず,トリックについて話すことを抵抗していると,シャーマンに「ケサ,きみのある部分は儀式をやめたいと思ってて,死にもの狂いで僕に話そうと思っているのに,ほかのところでは,話すのをすごく怖がってるんだ」と言われた。「まるで戦争をしてるみたい」とケサは答え,少しずつ儀式について話していった。シャーマンは笑わず,微笑みも浮かべなかった。驚いた表情さえ見せなかった。ケサがトリックについて話終えると,シャーマンは「木曜に早めに来るから,一緒に昼食を食べよう。きみのやり方で僕と一緒に食べればいい」と言った。ケサは「絶対にできない」と答えたが,シャーマンは「こうしないと,なにも始まらない。儀式をやめることもできないんだ。だから,きみは僕の前で儀式をやらなくちゃいけない。君にはできるよ」と返した。シャーマンは議論したり駆け引きしたりせず,ケサができることはわかっていると,はっきり言いきった。そして,ほんの一瞬,ケサもそう信じた。しかし,シャーマンが出て行ったあと,ケサは恐怖と一緒にポツンと残されたような気がした。『シャーマンと一緒に食事するなんてとても無理,どうしたって避けなくちゃいけない』と思えてきた。ケサは四十八時間,シャーマンに電話攻勢を浴びせつづけ,シャーマンの前で食べられない理由を数えきれないほど並べたてたが,シャーマンは優しく,威厳に満ちた声で「きみを怖がらせるものを,僕も一緒に分かち合いたいんだ。きみがどこにいても一人ぼっちだと感じるのを,やめさせてあげたいと思う」と言った。ケサはなにも言い返せなかった。


(10)ケサの不安

 木曜日,ケサはシャーマンと食事をした。ジャーマンが食べ終わるまで,ケサは食べ物を切り刻み続けていたためひと口も食べていなかった。「すごく怖いのよ」ケサは我慢できず口に出した。「この食事は冷えすぎているって言おうとしたけど,それは本心じゃないの。冷えすぎてるのは食べ物じゃなくってわたしなの。ねえ,怖いのよ」ケサがそういうと,シャーマンはなにを怖がっているのか尋ねてきた。ケサが食べ過ぎてしまうことや,肥りすぎてしまうことだと答えると,シャーマンは別のことを怖がっていると言ってきた。ケサが何を言いたいのか尋ねると,シャーマンは「体重が増えすぎるのが怖いって思い込んでいるだけなんだよ。本当に恐れていることを考えるより,体重を恐れていることの方が楽だからね」と答えた。ケサは目の前の食事を見て,それからシャーマンを見た。ケサの目は混乱と惨めさがまじり合っていた。

 昼食後,ケサは眠りに落ち,四時半に胸騒ぎがして目が覚めた。なにかがひどく間違っていると感じたケサは時間も見ずにシャーマンに電話をかけた。しかし,シャーマンには「五時十分前に電話するよ」と言われてしまう。ケサは静かに泣きながら恐怖を感じていた。シャーマンから電話がかかってくると,ケサはすぐさま受話器をとった。そして「すごく怖いの。わたし,あの料理全部食べちゃったわ。胃がここにあるって感じるの。わたしをどんどん肥らせるのよ。それで,すごく怖いのよ」と泣きながら伝えた。シャーマンは「きみはあの料理を全部食べてやしないよ。あの食事くらいで肥りやしないって,約束するよ」と伝えた。ケサが「あるところでは信用してるわ。少なくとも信じたいって思ってる。でも,ほかの部分は怖がってるのよ」と返すと,シャーマンは「僕を信じられる部分を強くしていって,ほかの部分を取り除いていこうよ」と答えるのだった。

 電話の後,ケサはシャーマンのことを考えた。シャーマンはすごくよくわかってくれている。ケサは父のことを考えながら,『もしサンディがパパなら,どんなにいいだろう。』と思った。信頼できるし,優しい思いやりだって感じられる。ケサはこれまでのように。みんなからはずれて,ひとりぼっちという感じがしなかった。

 ケサは昔馴染みのフランチェスカ・ルイーズ女王のゲームを思い出し,女王を王女の地位におろし,シャーマンを父親として王位につかせることを決めた。そして,この空想は新しいかたちと,新しい力を持ってよみがえってきた。〈そこは一面雪におおわれ,厳寒の踏み込むことを許さない王国だった。城の外は危険に満ちていたけれど,ケサ王女は暖かい城の中で暮らしていた。城壁は厚く,完全で,堀がまわりを囲み,ケサ王女が許可しない限り誰も堀を渡ることはできない。父王はこうしてケサ王女を守っており,王に守られているケサは国民の羨望の的だった。王女は国土全体が戦場になっても鉄砲の音を聞くことはなく,嵐が吹き荒れても風の音を聞くことはない。王女は窓辺に立って城のまわりで起こっている惨事を眺めることもあれば,父王と自分の姿を織りこんだタペストリーを惚れ惚れと眺めることもある。ある日,王女はシャーマン王にメッセンジャーを送り,危険が迫っているかどうか尋ねた。メッセンジャーは王からの巻紙を抱えて帰ってきて,そこには『もちろん危険はありません。わたしの城にいる限り,あなたは一生安全です』と記されていた。〉ケサは夢物語を紡ぎながら,この数カ月になかったほどの暖かさを感じた。この暖かさは昔,女王フランチェスカを演じていたときに感じたものだった。『暖かくて,安心で,幸福な感じ。わたしには居場所がある。』

 翌日,ケサはライラからマーナが医療用カテーテルを盗み,それを使って吐いていたため一週間ベッドから出さないようにしていることを聞いた。「なんてひどいことしたの」ケサはうなずき,ゆうべ盗んで引き出しに隠したチョコレートプリンのことは考えないようにした。ケサはそのプリンを食べるつもりはなかったが,そこにあるってわかっただけで気分が落ち着いた。マーナのように気晴らし食いをしたり,吐くような真似をするつもりはなかった。

 午前二時,ケサは目を覚ました。ケサはシャーマンに電話しようと思ったが,こんな時間にはかけられないと踏みとどまった。すると,頭の中にいろいろな考えが浮かんできた。『わたしはシャーマンなんかに電話したくない。シャーマンなんて憎ったらしいだけ。』ケサは昨日の午後にシャーマンから今度家族で一緒に話し合おうと言われたことを思い出し,涙が出てきた。

 シャーマンに家族のみんなに会いたくないかと聞かれたとき,ケサは「みんなが会いたいなら来てもいいけど,わたしは誰もわたし達の面接に入ってほしくない」と答えたが,シャーマンに「どうして?」と聞かれて混乱した。『どう説明したらいいの?同じ部屋にサンディとパパがいて,そこにわたしもいなきゃいけないとしたら,サンディの娘っていう空想物語は壊れてしまうから?サンディをみんなと分け合ったりしたら,たった一時間でも,永遠にサンディを失ってしまうから?サンディは家族の方に行ってしまって,また,わたしの居場所がなくなってしまう。』ケサは,自分が家族と一緒でいい気分にいられると思わないでしょうとシャーマンに言ったが,シャーマンから「そうかもしれないね。でも僕は,きみが両親や姉さんにどういうふうに振る舞うのか,家族はきみにどんなふうに接するのか知りたいな。」と言われてしまう。ケサはそれを聞いて家族面接がどんなふうに進むのか,筋が読めてしまった。姉がこのショーの主役で,ショーを取り仕切ってしまい,サンディだって奪ってしまう。シャーマンはケサに「家族面接がどうなろうと,きみへの僕の気持ちは変わらないし,僕たちの面接は今までどおり続けていく」と言い,ケサはシャーマンと始めるすこし前に二人で会うこと,終わってから少し会うことを約束して家族面接に納得した。

 しかし,午前二時,恐怖が再び首をもたげてきた。ケサは家族面接までもう二日もないと思い,食事の食べ方を決めておこうと考えた。ケサは食事のことを考えたせいでおなかが減ってしまい,隠しておいたプリンを食べた。ケサは儀式を行うのに精一杯で,匂いや微妙な味に気づくことができなかった。二時間後,ケサは腹痛に襲われ,どうしようもなくなったため看護婦を呼んだ。ケサはいったいどんな罰が与えられるのだろうと考えていた。


(11)家族面接

 家族が面接室に集まると,父が「誰が誰の隣に座るかが問題ですな」と冗談で言うと,シャーマンは「そうですね」と答えた。そして,一つのソファに両親が一緒に座り,母の右隣に姉が座った。ケサは隅っこに一人で座った。面接はケサの話題で始まったはずだったが,すぐに姉の独壇場になってしまった。姉と父が言い合いをして,母がそれをなだめていた。シャーマンが「いつもこんな調子で話が進むんですか?」と聞くと,母は「本当にこの通りです」と答えた。それを聞いたシャーマンは「それで,ケサはいつ話に入るのですか?」と尋ねた。デートリッヒ家の三人は驚いた様子で,父がどういう意味かシャーマンに訊いた。「今の話はフランチェスカには関係のないことです。そこなんです,なんでフランチェスカが病気になったのかわからないのは。あの子はこういう争いには絶対巻きこまれないんです。」シャーマンは答えた。そして座っている並び順について,「どうしてそんな隅に座ってるんだい」とケサに尋ねた。ケサは肩をすくめるだけだったが,シャーマンに「答えないといけないよ」と言われると,泣き出した。シャーマンは残りの家族が居心地悪く感じていることをわかっていたし,自分がケサにきつく問い詰めすぎると思っていることもわかっていた。母が「フランチェスカには負担なんじゃないかしら」と言うと,シャーマンは「ケサでも誰でも,こういうことに直面するのは普通につらいことだと考えると思います。それが問題のひとつです」と答え,「この言い争いはいつものことだとおっしゃいましたね」と尋ねた。家族は皆うなずいた。父は「フランチェスカがうちの子の中で一番繊細な気がします」と言った。それを聞いたシャーマンは「フランチェスカが子どもたちの中で一番繊細だと言われますが,スザンナにはあなたが時間をかけ心配するのですね」と返した。父は「フランチェスカは心配なんていらない子です。いつだってすばらしくいい子です」と答えたが,シャーマンは「すばらしいとはそういうことなんでしょうか,そのためにケサが無視されるとしてもですか」と訊いた。父は「娘の病気はわたしの責任だと言ってるようだが」といら立ち,口をはさんできた姉と言い争いを始めそうになったが,シャーマンがそれを遮った。そして,三人に「家族に何を望まれますか?」と尋ねた。三人はそれぞれ自分の答えに満足しているようだったが,シャーマンがケサに向き合うと居心地が悪くなった。ケサは泣きながら「わからない。わたし,わかりたくない。わかりたくないのよ」と答えた。「そんなものほしくない。憎んでいるわ。でも,必要なの」とケサは言い,シャーマンに何を憎んでいるか訊かれると,「家族よ。あの人たちを欲しがる気持ちが憎い」と答えた。どうして憎んでいるのか訊かれたケサは,「ほしがる気持ちを憎んでる。だって,絶対に手に入らないものがほしいだなんて」と答えた。父は驚き,「いつだって,お前の望んできたものは何でもやってきたじゃないか」と言ったが,ケサは「わたしが望んだことって何?」と言い返した。「わたしは何にもほしがらなかったわ。だから,何にももらってない。グレッグは褒められた,スザンナは関心を持たれた。わたしはなんにも。パパからなんにも,ママからもなんにもよ」ケサはすすり泣きながら続けた。「ママはわたしのことなんて,全然愛してくれなかったし,これからもそうよ。ママはスザンナを愛していて,わたしにはそうじゃない」ケサは両手で顔をおおい,すすり泣いていた。シャーマンは「ケサ,きみを誇りに思う」と言い,母に対して「あなたが娘さんを愛していないと言うつもりはありません。ここで一番大切なことは,ケサが愛されていると感じていなかったこと,それから愛されたいと望んでいることです」と言った。そして三人に向かって「ご家族として,ケサが精神的に頼ってくるのを励ましてあげなければいけません。一週間,みんながうまくいったからといって,それでいいというわけでもありません。こういうパターンができるまでに長い年月がかかっているのですから,叩き壊すのにも時間がかかります。それを助けるためにも家族面接を週に一度持ちたいと思います」と言った。三人は安心した様子で帰り,ケサとシャーマンだけが残った。「ここにいて,一緒に食べてもらえない?」ケサが頼むと,「そうしよう」と返ってきた。


(12)儀式との別れ

 一週間後,ケサとライラがテレビを見ていると,マーナが昼食の盆を二つ持って入ってきた。そして,午後に自分の部屋においでとケサを誘った。ケサがマーナの部屋に行くと,マーナはルームメイトの身体をスポンジで拭いているところだった。ルームメイトにパジャマまで着せると,ケサに「あなただって拭いてあげるわ。看護婦はわたしのこと,自分たちと同じくらいうまいって言ってたわ」と言った。ケサは「結構よ」と答え,「わたしはあなたの患者じゃないわ。それにあなたは看護婦でもなければ医者でもないでしょ。誰にでも世話をしようとするのはやめてよ」と言った。それに対しマーナは,自分は幼いころから人の世話をしてきたことを話した。特に家では買い物も食事もマーナが行っていた。それを聞き,ケサが「そんなにしっかりしてるのに,どうして病院にいるの?」と尋ねると,「医者がわたしのこと『極めて危険な状態』って言ったからよ。自分のことは自分でできるし,ほかの人の分までできるのにさ」と返ってきた。「そう,でもわたしの世話はしないでね」ケサはそう言うと,自分の部屋に向かって歩き始めた。『これからはマーナに近づかないようにしよう』ケサは心の中で誓った。そして,『神経性拒食症って,みんなマーナみたいなんだわ。ということは,わたしだってマーナみたいだってことなんだわ。』と思い,鏡の中の自分と向かい合った。すると突然,両親や医者たちが言っていたように,ケサは自分が醜く見えてきた。

 ケサとシャーマンはいつもの小部屋で昼食を食べようとしていた。「どれくらい食べようと気にしないよ。でも,食べるのが不安になったら僕に言ってほしいんだ」シャーマンがそう言うと,ケサは「わかったわ。でも,今日はそんなにひどくないような気がするな。ずっとおかしな気持ちだったけど,今日は変だけどいい気分なの。それに,一緒に食べてくれてうれしいし」と答えた。ケサはサンドイッチを四等分したけれど,念入りに皿の上に並べたりはしなかった。コールスローをフォークに乗せて口に運んだ時も,唇がフォークに触れないように唇をぐっと引いたりはしなかった。ケサはサンドイッチを半分食べ,ミルクをコップ一杯飲んだところで「これでおわりにしてもいい?」と訊いた。シャーマンは「もちろんさ」と答えた。それから,「まだ体重が増えすぎるのは怖いの。このことが怖くなくなるのに,どれくらいかかるの?」と訊いた。シャーマンは「自分のこと信じられるようになるまで,どれくらいかかると思う?」と返し,ケサは「本当はそう言うつもりだったの。どれくらいかな?」と言った。シャーマンが「しばらくだろうね」と言うと,ケサは「早くそうなればいいのに。体重が増えるのは怖い,でも,スキニーでいるのも本当にイヤなの」と返した。シャーマンはケサに,体重が増えすぎて怖いと思ったら,僕が増えすぎてるかどうか判断するから電話をかけてくるといい,と伝えた。ケサは「今まで会った人の中で一番ボスっぽい人ね」と言い,少し黙った後で「マーナ以外の人の中で」と付け足した。シャーマンにマーナのことを知っているか訊くと,シャーマンはうなずいた。マーナのことどうしたらいいと思うか訊くと,「マーナやほかの人とのつきあいは,自分のために自分で闘いとっていかなくちゃいけない。自分のために闘うってことは,ひとりぼっちでいるということじゃないんだ」と返ってきた。ケサは笑い,「マーナのことあんまり話さないようにするわ。マーナのことはサンディが自分でわかっていけばいいわ。わたしが良くなったら,マーナの治療にとりかかるでしょ」と言った。シャーマンはケサの『わたしが良くなったら』という言葉をうれしく思った。

 シャーマンが出ていく頃,ケサはまた暖かさを感じていた。しかし,すぐにパニックに陥ってしまい,シャーマンに電話をかけた。シャーマンは「きみが通り抜けようとしている混乱は全部,きみが前進してるって印なんだよ」と言い,四日以内に高カロリー輸液が中止になることを伝えた。ケサは「はずしてほしいの。でも怖いの」と返した。シャーマンはきみが怖いときには電話してきてほしいと伝え,ケサはそれを聞いて暖かさを感じた。そして,今こそマーナと対決するときだと確信した。『サンディは,マーナとわたしの問題は自分で解決しろって言った。じゃあ,今が,そのときよ。』

 ケサはマーナの部屋へ行き,「デイルームの方へ行かない?話があるの」と声をかけた。マーナはケサの声の調子を敏感に感じとり,緊張したけれど,別に怖くはなかった。デイルームにつくと,マーナが何の用か訊いた。ケサは「わたしのことじゃなくてあなたのことよ。わたし,病気はやめることにしたの」伝え,そして,「あなたは病気じゃないわ,マーナ」と言った。マーナは金切り声をあげた。マーナが「そのへんの誰に聞いても,今まで見た拒食症の中で,一番重症だっていうわ」と言うと,ケサは「今まで見たお馬鹿さんの中で,あなたが一番ひどい困り者だっていうわよ」と返した。ケサは自分の言葉に怯えながらも,誇りと力を感じていた。「昔は病気だったかもしれないけど,もう病気なんかじゃないわ。ふりをしてるだけよ。本当に病気なら,病気なんか大嫌いのはずよ。わたしは病気を憎んでる。でも,あなたは病気が大好きよね。ゲームの一種かなにかと思っていて,あなたの勝ちってわけよ」ケサがそう言うと,マーナはイライラした調子で「あんたが何を言おうとしているかわからない」と言った。ケサは急に気楽になった。そして静かで落ち着いた声で「別になにか言うつもりなんてないわ。もう,そうする必要もないし。病気は匂うし,わたしは良くなって,ここを出るの。わたしは普通の人になるわ」と言った。マーナに「拒食症は絶対治らないのよ。しばらくはここから出られるかもしれないけど,絶対よくなりっこないのよ」と言われたが,ケサはシャーマンの言葉を思い出し,「賭ける?」と言った。そして肩をそびやかして部屋を出て行った。

 シャーマンがケサの部屋に入っていくと,ケサは何かを書いていた。高カロリー輸液を中止してから一カ月がたったが,ケサの身体は良くなっているようだった。「来年の宿題をもうやっているのかい?」と尋ねると,「兄さんのグレッグに手紙を書いているの」と返ってきた。「グレッグなんて最低,一度も面会に来ないなんてひどいって書いたわ」ケサがそう言うと,シャーマンは笑いながら「それは二人のためにいいことだね」と返した。それから,「高カロリーの療法を中止してから一カ月たった。入院してからはほとんど三カ月になるね。体重は僕たちが決めていた38.6キロだ。退院だよ,ケサ」と言った。ケサが「ライラはまだいるのに,どうして家に帰らなきゃいけないの?」と言うと,シャーマンは首を横に振った。ケサが「わたしは,まだ時々,怖いときがあるの。わたし,家に帰りたいの,でも,この一カ月の間でも,まだ怖いことがあったわ。食べることが,いろんなことに」と言い直すと,シャーマンは「わかってる,ケサ。でも前ほど怯えてないし,前ほど多いわけじゃないよ」と返した。ケサはしばらく黙りこみ,去年の春,経験した恐怖とパニックを思い出していた。「家にいったん帰ったら,わたし,どんな気持ちになるかわかんない」ケサがそう言うと,シャーマンがどんな気持ちになるか話してくれた。ケサは警戒した表情で「わたし,いつか,完全に良くなると思う?」と訊いた。シャーマンが「きみは治るよ,ケサ。僕はこれまで,まちがったことがあったかい?」と言うと,ケサは「まちがったことなんてなかった。でも,今は嘘をついている気がする」と言った。シャーマンがそういうことか訊くと,ケサは「わたしがいつも,あなたに答えを教えてもらわなくちゃならないんだったら,わたしは本当に良くならないでしょ」と答えた。シャーマンが優しい声で「きみが頼ったり甘えたりするのを,僕たちが一緒にやっつけられたらすぐに,今度はきみが一人立ちすることにとりかかろうよ」と言うと,ケサは「これからも週二回,あってもらえる?」と訊いた。シャーマンは「あたりまえじゃないか」と答え,部屋を出ていこうとした。「サンディ」ケサは呼び止め,「これからも電話していいの?」と訊いた。シャーマンはケサのそばに戻り,「いつだって電話していいよ,どうしてかわかるかい?」と言った。ケサはにっこり笑い,「わたしは人の関心をひくために,病気にならなくてもいいから,じゃない?」と答えた。


Ⅳ.考察


(1)ケサの自己愛対象関係について

 松木(1997)は,摂食障害患者らの内的世界では,自己の分割(スプリッティング)とそれに伴う対象群の分割が起こると述べ,その内的世界を「2つの自己―対象世界」と表現している。まず自己の分割では,【健康な自己】と【病的自己】に分かれ,そこから〔現実原則に従う自己と対象群〕と〔快感原則に支配されているもうひとつの自己と対象群〕に分かれる。この2つの自己―対象群により,「2つの自己―対象世界」が存在するとされている。また,これら2つの対象関係は,それぞれがひとつのパーソナリティであるかのようにお互いを排除しながら機能しようとしていくと述べている。

 この考えを基に物語を見てみると,ケサは15歳という思春期の時期に摂食障害となっている。この時期は,自己の未熟さや周囲の友人,きょうだいとの違いから劣等感を感じ,自分という存在を強く意識する。そこからさらに,母親から自立し一人の人間でありたいという願望が出てくるのだが,そこには分離不安が伴い,母親からの自立と依存というアンビバレントな葛藤が起こる。そしてその内的世界では抑うつ不安や万能感の喪失が体験される。そこで,自己の未熟さや自立に伴う分離不安にもちこたえることができたならば,パーソナリティの統合が行われ,Blos.(1962)の述べた「第二の分離―個体化」課題を達成し,現実原則による思考や感情を獲得することができるのである。

 しかし,ケサ(フランチェスカ)は『生理が始まったとき,自分が母親なしではやっていけないちっちゃな子ではなくなってしまったのだと母にバレたら,母は愛してくれなくなると信じこんでいた』とあるように,母親との分離,抑うつ不安や万能自己愛世界を失うことへの悲しみに耐えることができなかったために,自己を【健康な自己】と【病的自己】に分割させてしまい,【病的自己】が自己愛対象関係を作り上げることで,抑うつ不安を回避しようとしたのではないかと考えられる。

 また,自己愛対象関係とは,投影同一化を多用することで自己と内的対象との万能的融合状態になることであり,松木(1997)はその対象関係のオリジナルは,患者らの内的世界での母子関係であると述べている。ケサは理想化されたやせた身体へ投影同一化することで,万能的な自分を体験する。そして,よい対象を必要としている『弱虫でおどおど』した自己(フランチェスカ)を排除し,抑うつ不安を否認したのである。いわば,躁的防衛がここでは行われている。

 鈴木(2006)は,拒食という行為においては,万能感と優越感がその行為者のこころを占め,自己愛世界が築かれると述べ,松木(1997)は自己愛対象関係の特徴を,(ⅰ)良い対象への依存の否認,(ⅱ)良い対象への「羨望」の感情に対しての防衛,(ⅲ)自己の万能,全知の持続,(ⅳ)抑うつ不安の否認,(ⅴ)破壊-攻撃性がより肯定される,と述べている。

 この松木(1997)の考えに基づいて,ケサの内的世界について考えてみる。

 (ⅰ)良い対象への依存の否認は,物語序盤のケサがマダムの『子分,子ども』になりたいと感じていたが,中盤では『何も感じない』と感じているところや,父が自分のことを助けたいと言っていることにうれしく思う反面,そのことに対して危険だとも感じているところから確認することができる。

 (ⅱ)良い対象への「羨望」の感情に対しての防衛は,ケサが見た〈夢〉に出てくるマダムやジュリア,両親等の人物は羨望の対象であり,スポットライトが消えていくのは羨望の対象では無くす,こころから排泄するための防衛の表れなのではないかと考えることができる。また,モデルに対して自分の方がやせで勝ったと感じていることからも,羨望に対する防衛を確認できる。現に,この頃からケサのやせへのこだわり(儀式)は加速していき,やせに没頭するようになっていっている。これは自己愛の高まりを意味していると考えることができる。

 (ⅲ)自己の万能,全知の持続は,まさにやせに充足している間のケサの姿であると言えよう。母や父,ゴードン医師の忠告には一切耳を傾けず,やせた自身を常に理想化している姿からそのことが伺える。この頃のケサは【病的自己】が【健康な自己】を完全に排除し,精神を支配してしまっている状態だと考えることができる。両親を支配し操ろうとする姿からも『自己の万能,全知の持続』がなされていることが伺える。

 (ⅳ)抑うつ不安の否認は,物語の中で,ケサは何度か抑うつ的な気分になるが,その直後には抑うつは強い不安や怒りなどに変形され,パニックを起こす時があったところから伺える。これは抑うつ不安の否認であると考えられ,ケサの精神は自己愛万能感に支配されていたと捉えることができる。

 (ⅴ)破壊-攻撃性がより肯定されるについては,ケサが両親を支配できなかった時や,入院が決まった時など,強い不安を感じた際に怒りをあらわにしたり,泣き喚いたりしている姿から確認できる。これは,万能感が維持できなくなったが故の反動であると考えることができる。

 以上のことから,ケサ(フランチェスカ)の中には自己愛対象関係である【病的自己】が一つのパーソナリティとして存在していたことが伺える。そして,この【病的自己】が【健康な自己】を覆い隠し,摂食障害として姿を現したのだと考えることができる。


(2)ケサの自己像について

 摂食障害のパーソナリティは【病的自己】と【健康な自己】に分割されるが,松木(2006)は【病的自己】の中には「自己愛的」,「倒錯的」,「嗜癖的」,「反社会的」な側面があると述べている。

 松木(2006)によると,自己愛的側面では自己についての優越感,誇大感を絶対的に維持しようとする反面,対象,すなわち周りの人たちへの軽蔑や支配,あるいは無関心が見られるとされている。これらは物語の中のケサから確認することができる。たとえば,ケサのジュリアに対する軽蔑,入院をやめさせようと両親を操り支配しようとする態度,ゴードン医師や両親の心配に対する無関心などが挙げられる。これらのことから,物語序盤のケサは,自己愛が大きくなり,やせた自分を理想化し,その自己愛世界だけに住んでしまっていたと考えることができる。

 倒錯的側面について,松木(2006)は,思春期の発達ゆえの必然的な様々な喪失,たとえば,小さな子どもとしての母親とのつながりを失うこと,無垢な自分を失うこと,友達との一体感を失うことなどへの悲しみを,摂食障害患者らは空腹感の爽快感や,やせた自分の達成と優越という快感,嘔吐や下剤で一挙に排泄するという快感で消してしまおうとすると述べている。これは,『ケサは生理が始まったとき,自分が母親なしではやっていけないちっちゃな子ではなくなってしまったのだと母にバレたら,母は愛してくれなくなると信じこんでいたのだった。』という表現からもわかるように,フランチェスカには「小さな子どもとしての母親とのつながりを失うこと」と「無垢な自分を失うこと」への不安が大きかったのだと考えられる。「小さな子どもとしての母親とのつながりを失うこと」と「無垢な自分を失うこと」は,優秀な兄グレッグや関心を持たれた姉スザンナと違い,自分は何も持たない存在になってしまうことを意味するからである。フランチェスカはその不安を自分のこころの中に置いて悩んでおくことできなくなってしまったために,そのような不安をものともしない完ぺきな「ケサ」に生まれ変わり摂食障害となることで,自分のこころを防衛しようとしたのではないかと考えられる。

 また嗜癖的側面についても松木(2006)は,倒錯的な心性が活発なら,その快感を活用するやり方を再現し維持しようとする反復強迫が強く出てくるようになり,そしてその倒錯的快感の獲得の慢性化が嗜癖であると示している。これはケサが「儀式」とよんでいた『食べ物を切り刻む』などの行動が増えていく様からも見られるように,ケサの中で倒錯的快感の獲得が慢性化してしまっており,嗜癖的側面が次第に力を増していってしまっていることがわかる。

 反社会的側面について,摂食障害患者らには「盗み」や「うそをつく」行為が見られると松木(2006)は述べている。ケサが病院食を隠し,新しい病院食を貰う行為や,マーナに体重を聞かれた際にうそをつく行為などから,ケサにも反社会的側面があったことが伺える。

 このように,ケサの中で【病的自己】が一つのパーソナリティとなり,精神全体を支配してしまっているかのように思われる。松木(1997)は,摂食障害患者らがやせに充足しているときには,あたかも自己の分割がないかのような葛藤のない状況が認められると述べている。しかし,実際は【健康な自己】もケサの中に存在している。

 シャーマンと出会う以前のケサは【健康な自己】が【病的自己】に飲み込まれ,自己愛対象関係を作り上げてしまっていたが,シャーマンとの治療の中で【健康な自己】は力を取り戻し,抑うつ的な気分を味わったり,不安を感じたりすることができるようになった。『ケサは,食欲や体重についてはしぶしぶにしか話さなかったが,シャーマンのことを信用し始めていた。そして,そのことをケサ自身も感じていたが,人とのつながりはケサを不安にした。』という部分から,ケサの中でシャーマン(良い対象)への依存と否認がなされていることが伺える。しかし,その後の『ケサは,気持ちをわかってくれる人をこらしめることにつかれてしまったため,もうこんなことはやめようと思った』という部分から,ケサの中でシャーマンに対する自己愛万能感が少なくなり,ケサの【健康な自己】が「シャーマン」を良い対象として取り入れたのだと理解することができる。ケサの〈シャーマン王とケサ王女〉の内的空想からもその様子を伺うことができる。そして,シャーマンという良い対象を得た【健康な自己】は次第に力を取り戻していったのだと考えられる。

 そして,力を取り戻した【健康な自己】は【病的自己】をとり込み,摂食障害ではない健康な「ケサ」として生まれ変わったのだと考えることができる。

 以上のことから,ケサの自己像はシャーマンとの関わりのなかで分割されていた自己像から統合された健康的な自己像へと変容し,摂食障害から抜け出すことができたのだと考えることができる。


(3)フランチェスカの共生期の失敗について

 作中,フランチェスカは「弱虫」で「おどおど」した,周りに過剰適応する弱い存在であるとされている。そのような背景には,母親から十分に愛されなかったという自己不全感と,「いい子」でなければもっと愛されない,必要とされないという感情が存在していたと考えられる。実際,フランチェスカは『いつだってとてもいい子』であったと表現されている。

 この必要とされていないという感情が生まれた理由を,Mahler,M.(1975)の分離―個体化の発達理論を基に見ていくと,共生期での母子関係にゆがみが生じたのではないかと考えることができる。Mahler,M.の分離―個体化理論とは,共生期,分化期,練習期,再接近期,対象恒常性の萌芽期に分かれているというものである。共生期とは生後2~3カ月の時期を指し,その内的世界では自分と他者という区別が十分についていないと馬場・青木(2002)は述べている。つまり,乳児は他者のことを自分の延長または一部だと思っていて,その内的世界では自己愛と万能感が保たれているのである。例えば,乳児が泣き,母親がそれに授乳であったりおむつの交換であったりと,乳児の期待に応えようとすることで,乳児の内的世界では自分の欲求は泣くことで満たされるといった万能感を感じるのである。またこの時期の乳児は母親との間で基本的信頼感を獲得する。しかし, 母グレースの『フランチェスカは産む予定じゃなかった』という気持ちが無意識のうちにフランチェスカとの交流を阻害し,母グレースは共生期のフランチェスカを受け止めることができず,基本的信頼感を獲得出来なかったのではないだろうか。そして,子どもであったフランチェスカは自身の気持ちにあまり関心を持たない母親から必要とされるために「いい子」であろうとしたのではないかと考えることができる。そのため,母親との間では信頼や安心感が育たず,分離も達成できなかったのではないかと考えられる。

 そして未分化状態のまま思春期を迎え,自己を強く意識し,母親からの分離をより意識的に体験するようになった時,今まで抑え込んできた不安がフランチェスカに突如として襲い掛かったため,フランチェスカは不安を回避するために『完ぺき』なケサとなり,摂食障害を発症したのである。

 また,共生期に基本的信頼感を母親との間で築くことができなかったフランチェスカ(ケサ)は,『グレッグは褒められた,スザンナは関心を持たれた。わたしはなんにも。パパからなんにも,ママからもなんにもよ』,『ママはわたしのことなんて,全然愛してくれなかったし,これからもそうよ。ママはスザンナを愛していて,わたしにはそうじゃない』という2つの発言に見られるように誰からも必要とされていないという自己不全感を抱いたのではないかと考えられる。

 摂食障害患者らは,食べられなくなるという状態で依存対象のところに戻り,母親に養われ,母親の懐に戻ってきてよかったと思うのだが,次第に養ってもらうことが馬鹿らしくなり,退屈になってきて,こんなところにはいられないと蹴飛ばし出ていって自分の生活を始めてしまうと馬場(2008)は述べている。これは母親に依存する生活からやせに充足する,ある意味で自立した生活に転換してしまうことを意味している。このことから,ケサは乳幼児期に未達成だった分離―個体化の課題を思春期でも母との間で形成することができず,母に依存する生活を抜け出し,やせに充足する生活に没頭するようになっていったのだと考えられる。

 2のケサの自己像でも述べたように,ケサはシャーマンとの関わりの中で,母との間で達成されなかった分離―個体化の課題を再演し,シャーマンがケサの依存感情と怒りの欲求を上手く受け止めることができたため,ケサの自己像は自立した健康的な自己に統合されていったと考えることができる。

 ケサがそうであったように,思春期以降に発症する神経性食欲不振症をはじめとする摂食障害の背景には,乳幼児期の相互作用の障害,身体像や自己の内部知覚の発達の歪み(渡辺,2000)が大きく影響しているのだと言えよう。

 以上のことより,摂食障害発症には乳幼児期,ひいては共生期の母子関係の不完全感が原因の一つであるということができる。


Ⅴ.総合考察


 本論文では『鏡の中の少女』を臨床素材として使用し,摂食障害という病理の成り立ちや,摂食障害の背景にある母子関係の歪みについて精神分析・対象関係論の観点から考察した。

 筆者は過去の2つの体験から,摂食障害,とりわけ神経性やせ症について興味を持ち,その内的世界について明らかにしたいと考え,『鏡の中の少女』をもとに摂食障害患者の内的世界について焦点を当てた。『鏡の中の少女』では,フランチェスカは15歳という,母親からの分離をより意識的に体験する思春期に摂食障害を発症している。これは,フランチェスカが抑うつ不安や万能的自己愛世界を失う体験に耐えることができなかったため,誰にも指図されない強くて完ぺきな自己愛対象であるケサを自己愛対象関係として内的世界に作りあげることで抑うつ不安などを回避しようとした結果であると理解できる。自己愛対象関係とは,投影同一化を多用することで自己と内的対象との万能的融合状態になることであり,松木(1997)はその対象関係のオリジナルは,患者らの内的世界にある母子関係であると述べている。ケサの場合,やせたモデルのような身体に同一化することで万能的な自己を体験したため,拒食になったのである。また松木(1997)は,摂食障害患者らの内的世界では,自己の分割(スプリッティング)とそれに伴う対象群の分割が起こると述べ,その内的世界を「2つの自己―対象世界」と表現し,自己が,【健康な自己】と【病的自己】に分割され,そこから〔現実原則に従う自己と対象群〕と〔快感原則に支配されているもうひとつの自己と対象群〕への分割が生じると述べている。ケサの内的世界では自己の分割が起きたため,拒食という行為が起こったのだと考えられる。また,抑うつ不安を感じさせる【健康な自己】は万能感を壊す存在として恐れられたため,【病的自己】によって完全に排除されたかのように扱われてしまったのだと考えられる。

 この強い抑うつ不安の原因は,乳幼児期の母子関係の歪みにあるといえる。フランチェスカはまわりに過剰適応する『とてもいい子』として振る舞い続けていたが,その背後には「いい子」でいなければ母親から必要とされないという不安と,母親から十分に愛されなかったという自己不全感が存在していた。シャーマンとの家族面接でフランチェスカ(ケサ)が語った『グレッグは褒められた,スザンナは関心を持たれた。わたしはなんにも。パパからなんにも,ママからもなんにもよ』,『ママはわたしのことなんて,全然愛してくれなかったし,これからもそうよ。ママはスザンナを愛していて,わたしにはそうじゃない』という2つの発言にそれは裏付けられる。そうした必要とされていないという自己不全感は,Mahler,M.の分離―個体化理論における共生期での母子関係に歪みが生じた結果だと考えられる。『鏡の中の少女』では,母グレースの『フランチェスカは産む予定じゃなかった』という気持ちが無意識のうちにフランチェスカとの交流を阻害してしまったため,母グレースは共生期のフランチェスカを受け止めることができず,子どもであったフランチェスカは自身の気持ちにあまり関心を持たない母親から必要とされるように「いい子」であろうとしたのだと考えることができる。「いい子」であるという偽りの母親同一化によって母親と未分化のまま思春期を迎えたフランチェスカは,不安定な状態の中で自立や分離をより意識的に体験したために,乳幼児期から抑圧されていた必要とされないダメな自分という不安に突如として襲われ,不安を回避するための防衛手段として摂食障害を発症したのである。

 しかし,『ケサは,食欲や体重についてはしぶしぶにしか話さなかったが,シャーマンのことを信用し始めていた。そして,そのことをケサ自身も感じていたが,人とのつながりはケサを不安にした。』という部分や,『ケサは,気持ちをわかってくれる人をこらしめることにつかれてしまったため,もうこんなことはやめようと思った』という部分から,ケサの【健康な自己】が「シャーマン」を良い対象として取り入れたのだと理解することができる。ケサの〈シャーマン王とケサ王女〉の内的空想からもその様子を伺うことができる。そして,シャーマンという良い対象を得た【健康な自己】は次第に力を取り戻していったのだと考えられる。

 以上のようなシャーマンとの関わりから,弱虫でおどおどとしたフランチェスカは,自己愛的万能感に支配されている【病的自己】のケサの支配から脱し,【健康な自己】が内的世界を支配する,健康なフランチェスカとして生まれ変わったのである。


引用文献


Blos,P.(1962)『On Adolescence:A Psychoanalytic Interpretation.』The Free Pres of Glence. 野沢栄司訳(1971)『青年期精神医学』誠信書房

馬場禮子(2008)『改訂精神分析的人格理論の基礎―心理療法を始める前に―』岩崎学術出版社

馬場禮子・青木紀久子(2002)『保育に生かす心理臨床』ミネルヴァ書房

Maher,M.,Pine,F.&Bergman,A.(1975)『The psychological birth of the hu-man infant.』London:Nutchinson&Co. 高橋雅士他訳(2001)『乳幼児の心理的誕生:母子共生と個体化』黎明書房

松木邦裕(1997)『摂食障害の治療技法―対象関係論からのアプローチ―』金剛出版

松木邦裕(2006)『摂食障害の精神分析的アプローチ―病理の理解と心理療法の実際―』金剛出版

渡辺久子(2000)『母子臨床と世代間伝達』金剛出版


要約


 近年,神経性やせ症や神経性過食症といった摂食障害に陥る若者が増加している。そこで,本論文では『鏡の中の少女』を臨床素材とし,思春期の時期に摂食障害を発症したフランチェスカ(ケサ)の内的世界に着目し、摂食障害患者の内的世界と病理の成り立ちについて考察した。その結果,摂食障害患者らの内的世界では,自己の分割(スプリッティング)とそれに伴う対象群の分割が起こることが理解された。まず自己は,【健康な自己】と【病的自己】に分割され,そこから〔現実原則に従う自己と対象群〕と〔快感原則に支配されているもうひとつの自己と対象群〕に分かれる。この2つの自己―対象群により,「2つの自己―対象世界」が存在することになる。また,これら2つの対象関係は,それぞれがひとつのパーソナリティであるかのようにお互いを排除しながら機能しようとしていくのである。また,摂食障害発症の背景にはMahler,M.の分離―個体化理論における共生期での母子関係の歪みが生じていると筆者は考える。『鏡の中の少女』では,母グレースの『フランチェスカは産む予定じゃなかった』という気持ちが無意識のうちにフランチェスカとの交流を阻害してしまったため,母グレースは愛着形成の重要な時期である共生期のフランチェスカを受け止めることができず,フランチェスカは自身の気持ちにあまり関心を持たない母親から必要とされる「いい子」であろうとしたのだと言えよう。「いい子」であるという偽りの母親同一化によって母親と未分化のまま思春期を迎えたフランチェスカは,不安定な状態の中で自立や分離をより意識的に体験したために,乳幼児期から抑圧されていた必要とされないダメな自分という不安に突如として襲われ,不安を回避するための防衛手段として摂食障害を発症したのだと論考した。

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