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ぶーちゃんとエヴァンゲリオン

突然ですが、私はモテます。
異性にも同性にもそれなりにモテるほうだと気付いたのは、高校に入って少ししてから。生きているだけで「カワイイ」と褒めてくれる友人たちのおかげで、それまで自己肯定感ゼロだった私も「生きてていいんだな~」と感じ始めました。恋人も特に何もしなくてもできるし、告白だって笑っちゃうほどされて、でもさして恋愛に興味のなかった私は “来るもの拒まず・去る者追わず” の精神でなんとなく形ばかりのお付き合いをしたり、「価値観が合いません」という売れないバンドみたいな理由で別れたりしました。

大学生になるとさらに顕著になっていきます。私のこの、人畜無害そうな顔と馴れ馴れしい態度のせいで相手に「いけるのではないか」と思わせているのだなということは分かっても、これが私の性格なのだから仕方ありません。幸い大学に入学してすぐにできた恋人と長く続いたので危険なことはなかったのですが、改めて自分はモテるのだなと認識しました。
嫌気が差すことも多くありましたが、だからといってあえて異性との距離をうんと置くのも気が引けるし、うまく使えば便利よね、とそんな風に考えるようになりました。性格はあんまり良くないもんでね。

今までのことから分かるように、私は恋愛に対して能動的に動いたことはなかったのです。自分で壁に当たったり、玉砕したりしたことがなかったのです。
「恋愛」とは、辞書で調べると(色々ありますが)「常に相手のことを思っては、2人だけでいたい、2人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」だそうです。この定義でいくと、かつての私は到底恋愛をしていたとは言えないでしょう。2人だけなんてまっぴらだ、私の世界は私だけのものであり、誰にも分かち合いたくないと思っていたのですから。
だから、私は二十を過ぎてから初恋をしてしまい、そうして失われたことにうんと悩んでいるのです。素敵な知人の言葉を借りるなら、「普通の人間が十代のうちに済ませてしまうことをこの歳に経験したのだから、そりゃあ長引くというものでしょうよ」ということです。確かに、おたふく風邪や麻疹なんかは大人になってからしたほうが辛い、と聞きます。

「ぶーちゃん」と、初恋の相手は私のことをそう呼びました。よく食べて、よく寝て、ぶーすかしてるぶーちゃんは、出荷待ちだねと笑いました。きっと他の誰かに「ぶーちゃん」なんて呼ばれたら、私は怒ることでしょう。女性にそんな言い方するなんて最低だ、と思うでしょう。でも、私はもう一度「ぶーちゃん」と呼ばれたくて仕方ありません。

彼は大学の後輩でした。黒い髪と細い目が特徴的な男性で、出会って1年が過ぎてから付き合うようになりました。はじめは無口でクールだと思っていた彼は意外とおかしくて、「ぶーちゃん」と私のことを呼んでは「ぶーちゃん行進曲」を歌ってくれるし、家に行くといつもどこかに隠れて待っているような人でした。全部が完璧な王子様、ということは決してなかったけど、歯磨きのコップは使わないで代わりに手を受け皿にしてうがいするところや、時々教科書みたいなおかしな言い回しをするところが大好きでした。やがて私たちは一緒に暮らしはじめました。1Rの小さなアパートは2人で住むには小さかったけれど、どこにいても相手を感じられる気がしました。どの戸棚に何が入っているか全部わかる、そんな空間が好きでした。

別れが来たのは3月です。私は就職が決まり、もうすぐ卒業を迎えるところでした。友人と飲み会に行き、全く動かない頭で別れを告げられた私は「わかった」と言ってしまったそうなのですが、全然覚えていません。どうしてこうなってしまったのか、分かるようで分からないのです。彼も考えたのだ、ということは分かったけど、どうして?どうすればよかった? そのことが分からず、今も毎日考えてしまって、どうしたって答えがないのでお酒を飲みます。アルコールで満ちている間は「どうして?どうすればよかった?」に振り回されることがないからです。どうしたら2人だけのあのアパートにずっといられたんだろう、仕事をしていても、眠っていても、そんなことばかり頭に浮かびます。これは気がくるっているな、と流石に自分でも思います、思いますが、これがきっと「恋愛」というものなのでしょう。

別れてから、何をしたって彼との思い出がつきまとうようになりました。新生活のため買ったランプの蛍光灯が思ったより熱ければ、あの1Rのロフトについていた外れかかった電球を思い出すし、お寿司を食べても、ステーキを食べても、何を食べたって彼の顔が浮かぶのです。あやつめ、ご馳走ばっかり好きでよく食べていたからでしょう。彼のいなくなった世界に「存在していた証」があまりにつきすぎていて、急にそれがからっぽになってしまったので、ひどく苦しめられています。

この気持ちをどうにかして切り替えよう、と思って行動したことは沢山あります。友人と話してみたり、遠くに出かけたり、別の異性と出かけたり。でもそれらは何の解決にもなりませんでした。友人との会話や遠出は楽しいけれど帰ってくると彼のいない生活が待っているし、異性からは告白されたけれど「彼らと世界を共有するのは求めてることじゃないな」と感じました。結局、彼だから良かったのであり替えの利く存在ではないのです。私にとっては。そうしているうちに、「とりあえず浸れるだけ浸っておこう」と思い始めました。

ですが、こんな話は誰にでもできるわけじゃありません。そもそも、世の中は失恋に浸っている人間に厳しいのです。「男なんていくらでもいる」「前向こうよ」「次があるって」……そんなことは分かっているのです。でも今はただ悲しみにくれていたいのです。例え自分に酔っているだけなのだとしても。そして一縷の望みがあるなら、再び彼に会いたのです。

別れてから、彼の好きなアニメを見ました。エヴァンゲリヲンというアニメです。有名なのでご存知の方も多いかと思いますが、彼に「エヴァンゲリヲンを見ている」と連絡した時(別れた初めの頃は連絡を取っていました。今は既読が付きません)「それは、エヴァンゲリヲンはぶーちゃんにとって、絆だから?」と聞かれてしまい泣いてしまいました。絆だからだよ、私にはほかに、なにもないもの……。おかげで今、エヴァンゲリヲンにあまりに詳しい人間になりました。考察サイト・ブログ・youtubeなど見漁りました。「エヴァンゲリヲンが好きな人と話してみたい」と言っていた彼とも、今なら対等に話せるでしょう。普通に面白くて好きになったというのもあるのですが、見始めた動機が不純なので許されないかもしれませんね、すみません。(なお、文中表記“ヲ”は彼が新劇場版が好きだったためです)

エヴァンゲリオン(新世紀を指しています)は、他者との関りを恐れる少年が、最終的にたとえ分かり合えず辛かろうとも他者のいる世界を望む話です。他者のいる世界、彼のいる世界、彼と私との世界を望むのがこのnoteの話でした。読んでくれてありがとうね。
ちなみにエヴァンゲリヲン序・破の主題歌は宇多田ヒカルさんの「Beautiful World」で、失恋当時この曲ばかり聞いていたので今聞いても胸が詰まります。鼻の奥の鋭い痛みを感じながら、彼のいない世界を生きています。


もしも願い一つだけ叶うなら、まるで碇シンジくんみたいな黒くて丸い彼の頭を、すやすやと眠っているあなたの頭をそっと優しく撫でてみたい。

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