自分にはできないことをやれてしまう誰かに、心は動くのかも

いま、海外で1970~1980年代のJ-POPが注目を集めているらしい。


「シティポップ」なんて呼ばれていて、当時洋楽を志向した日本のポップミュージックのことを主に指すそうだ。


個人的に、音楽と言えば70~80年代が至高だという意見を持っている私にとってはこうした流行は歓迎すべきことだ。
この時期の音楽に私がやけに魅せられてしまうのには、単純に音楽を聴いていて感動している、すなわち心が動いているということがある。


じゃあ何に心を動かされているのだろう、と思うと、例えばキャッチーな旋律だったり(ワインレッドの心のサビ前のメロディーラインとか)、死ぬほどかわいいアイドルだったり(南野陽子とか藤谷美紀とか)するわけだが、私の場合、その多くが歌詞の秀逸さだったりする。


たとえば、竹内まりやの「OH NO, OH YES!」という曲の冒頭の歌詞はこんな感じだ。

一つ一つ消えてゆく オフィス街の窓明かり
ヒールの音もひそめて あなたに会うために足早に歩くの
薬指のリングより 人目忍ぶ恋選んだ
強い女に見えても 心の中いつも切なさに揺れてる

要は、決して結ばれない肉体関係に溺れる女性の弱さを歌いあげたものなのだが、その表現として「薬指のリングより 人目忍ぶ恋選んだ」という一文は実に秀逸で、そして美しい。

そして、この一文に出会った時、私は「自分には書けない一文だな」と感じるのだ。
だから、いたく心が動く。感動する。


同じようなことは、キャッチコピーとの出会いの時にも起きる。

ひとりで生きていけるふたりが、それでも一緒にいるのが夫婦だと思う。

ジュエリーブランドであるティファニーの、有名すぎるキャッチコピーだ。個人的にすごく好きな一文である。
これもまた、「自分には到底書けない」と思う。だから、心が動いたし、すごく好きになった。

私の場合はとかく「書き言葉」における感動の経験が多いのだが、こうした心を動かす経験というのは、各々耳からであれ、目からであれ、いろんな感覚から得ているのではあるまいか。

そしてそのとき、往々にして「自分にはできない」とよぎる瞬間があるのではないか、と思うのである。
そして、その「自分にはできない」ということを何とかやってみよう、と思うところに成長があるし、場合によっては創造につながることもあるだろう。

私でいえば、上にあげたような美しい言葉とか、訴えかけるような言葉とか、ハッと意識を鮮明にするような言葉とかを、何とか自分の筆からひねり出せはしないか―と思いつつ、毎日を過ごしているわけである。

もっとも、頑張ったからできるようにならないといけない、というわけでもない。いくらやっても無理なことはある。尊敬してやまないベン・グリオンというおじさんはイスラエルという国を作った。

じゃあ、私の人生をかけて国を作れるかと言われたら、できるとは口が裂けても言えない。だからこそ、私はベン・グリオンというおじさんに対して尊崇の念を抱くし、話を聞けば心が動くわけだ。

上にあげたような歌詞を、キャッチコピーをしたためられるようになる日が私に来るかはわからない。
それでも、博打的に「何とかできるようにならんか」と努力を続けることに、人生の面白さがあるのだろうなあ、と30歳にもならないいま、ぼんやり思っている。

心が動いたその時、今のわたしたちにとっては不可能な何かが立ち現れているのだ。
その不可能な何かに近づいていこうとする意志だけは、年を重ねても失いたくないものである。

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