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現代は「生きていながら死んでいる奴が多い世の中」だったりしないか

そういえば、石原裕次郎さんの葬式で勝新太郎さんが弔辞を読んだときに印象的だった言葉がある。

「生きていながら死んでいる奴が多い世の中で、死んでまた生き返っちゃったというこのすごさ これはとてもすごい、頭が下がる」

天才肌で知られた勝さんであるから、多分何の準備もなく話をしていたのではないかと思うのだが「生きていながら死んでいる奴が多い世の中」という言葉は鋭く現代にも響くものである。

そういえば、三島由紀夫も「命売ります」という作品のなかで、以下のような一文を書いていた。勝さんの言葉にも通ずるものがあろう。

…ばかにモダンにしつらえた明るすぎるオフィスで、みんな最新型の背広を着て、手の汚れない仕事をしていた毎日のほうが、はるかに死んでいたではないか。

時に生きていて、漫然とした、機械のような一日がただ過ぎたなと実感することがある。
それはまさに「生きていながら死んでいる」時間であり、「はるかに死んでいた」「手の汚れない仕事をしていた毎日」でもある。

昔の偉い哲学者も「善く生きる」ということを志向したわけだけれども、生きながら死んでいる日々を避けるには、確かに生きている実感を獲得しないといけない。
はて、そんなものはどこにあるのだろうかーーと理屈で考え出したときから、ひとは説明できない物事にぶち当たり、そして言語化せねばならぬという内なる欲求から逃れられぬまま、葛藤を抱えることになる。

思うに、「善く生きる」瞬間なんて、その時間が終わってからくらいでしか気づけないのだろう。
食事をしたときかもしれないし、愛するもの同士で肉体の悦びをたんと享受したときかもしれないし、単に趣味や好きなことに打ち込んだときかもしれない。
いずれにせよ、その行為に没頭しているその時には幸せであることをあまり知覚していないものだ。食事も腹一杯食べるから幸せなのだ。いくらうまくても三分目で終われば幸せではない。

思いがけず行動せざるを得ないほど欲求が高まっており、それを無自覚のまま行動するとき、事後的にひとは幸福に気づき、自分の人生を自分のものとして生きたという実感に満ち満ちるのではないか。

逆に、意志を失って機械のように動いている時間や、事後的に「何をしてしまったんだろう…」と後悔を抱えてしまう日々に生きている喜びはない。
少なくともその行為をしているその時に何か別のことを考えるだけの余地がある時間は、およそ幸福ではなく喜びもないのだろう。
生きていながら死んでいるとき私たちの人生に意志は介在しているのか。己の胸に問うてみると、にわかに鼓動が早まる。

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