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己には、渇望するものはあるか?
なんであれ、失ったり、無くしたりするのは誰しも怖いものだ。
財布を無くすのはいうまでもない。
大切にしていたプレゼントとか、親の形見とか、そういうものも同じだ。
縁起でもない話だが、大切な人を喪うということも、また同じだろう。
ほかにも、失う経験はある。
水の中に潜ると、わたしたちは徐々に酸素を失う。
しばらくして息が苦しくなる。それでも我慢していると、全身が硬直して「いよいよヤバいぞ」という気になって、「さ、酸素を…!」ともがきはじめる。このときほど息が吸いたいと思うことは日常生活でそうそうあるまい。
次の瞬間に息がいきなり止まったら…と考えるだけでも恐ろしい。
仕事を急に失う、という事態だってある。
山一証券の破綻は衆目を集めたが、あの時も多くの社員が破綻することを当日まで知らなかったなんて話もある。
「報道で知ったので…」
と足早に支店に入っていく映像は今でも残っているが、「法人の山一」とまで言われた超大企業の倒産を受けて茫然自失とする表情を浮かべているであろうことは、想像に難くない。
肝心なのは、こんな風にある存在を喪うことで、はじめてひとはそれがあったことの尊さがわかるということだ。
人が死んだときにはじめて「人は死ぬのだ」という当たり前の事実を直視し、自分が健康に生きていることのありがたみを知ったりする…こんなときがまさにそうだ。
以前、ある勉強会に参加した。
ある先生が大学一年生の頃、数人の学生と好きな本を読んで読書会をしていたときに、当時の反帝学評(全国反帝学生評議会連合)という左翼団体が消火器などを持ち込み、暴力で勉強する自由を奪おうとしたという。
当時、若いということもあり手も早かったその先生はその反帝学評の奴らと暴力沙汰になってしまい、それ以来左翼の学生に付け狙われるようになったのだという。
これだけ聞けば笑い話だが、その先生は
「好きなように勉強をしているだけなのに、なぜお前らのようなやつらに禁止されなくちゃいけないんだ」
と大変に憤り、それから左翼が大嫌いになったと話していた。
要は、その先生は学問する自由を制限してくる頭のおかしい人たちからの「剥奪」の経験を経て、自由の二文字が渇くその瞬間を、確かに経験したわけである。
だからこそ、「二度と渇くまい」と、行動を続けていらっしゃるのだと思う。
時を現代に戻そう。
日本に生きる私たちの世の中は非常に満たされている。生きることより、むしろ死ぬ方が難しいくらいの世の中である。
名作「サンクチュアリ」の浅見千秋が
「保護され過ぎた人間…国に未来はない……」
と話しているが、まさにそんな世界が現代社会である。私たちは保護され、常にうるおい、人生で渇いた瞬間をなかなか体感しない。
要は、何かトラブルでもなければ渇く瞬間がやってこないのだ。だからこそ、何かを渇望する瞬間もまた、やってこない時代にあるということだ。
私自身、転職で収入が激減し、手取りが200万を切りかけたことがあった。
毎月毎月、ただ生活をしているだけなのに金が減って、貯金が底をついたときにはじめて「渇き」に触れた。
あの時に「夢を追うのも楽しくていいけど、とはいえ多少は金がないと親にも迷惑かけちまうし、何よりこのままだと死んじまうな」と思ったのをよく覚えている。
まあ私の話は笑い話だが、世の中を見ればいろんな危機は迫っている。
日本でも世界でも、どこかに渇いた瞬間があるのだ。
でも、別にそれに気づこうとするわけでもなく、のうのうと過ごす毎日がそこにあるだけ、ということは珍しくない。
いま一度問うべきである。
私たちは保護され過ぎてはいないか。
己の人生のどこに、「渇き」はあるのか。
これだけは渇いてはならぬ、というものを持ち合わせているか。
ここだけは水を絶えずあげ続けなくては、邪な思惑を持った輩にすべて吸い上げられてしまう…そんな場所は、世界のどこにある?
―それを探すことから、殺伐としたこの世界にみずみずしさを取り戻す営みが始まる。
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