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コミュ障には「おこだわり」を

「コミュ障」なんてことばがある。
コミュニケーション能力が著しく劣っていることを指すことばだ。
「障害」ということばを使っているが、別に医学的障害だと認識されているわけではない。ことさらに出来が悪いことを揶揄した言い方だ。
昔であれば「話すのが下手」とか「無口」とか、「口下手」なんて言い方をしていたのだろう。
やわらかい物言いでありながらも、なんだか思慮のない言い方になったなあと感じる。

就活なんかでも「コミュニケーション能力」の必要性が盛んに強調される。大事なものであるからこそ、コミュニケーション能力が欠落していることが目立ってしまうのだろう。

さて、コミュニケーションというと、とりあえず仲良くワイワイ話す力、という風に認識するひとも多いと思う。
たしかにそれもコミュニケーションの1つだが、少し踏み込んで話し始めると、自分の思想や哲学、思いといったものを表現する瞬間がくる。
より一般的な言い方をするなら、「議論」というものがスタートする、ということだ。

議論をするとは何か。
それは、世界の衝突である。
たとえば、好きなタイプの女の子、なんて話になったときに「かわいい系が好き」と「きれい系が好き」のどちらが良いか、という議論をしたとしよう。
それはすなわち、「かわいい女子至上主義者」と「きれい女子至上主義者」との、主義のぶつかり合いでもある。
「かわいい」派のひとが

「童顔丸顔女子こそ世界にとって至高の存在だ」

などといえば、「きれい」派のひとが

「大人の魅力がわかっていない。お前は感性が幼いから人生をやり直せ」

などと返す。

まあこれは非常にゆるい例だが、もっとレベルが上がれば原発推進派と反原発派とか、憲法9条改正派と堅持派とか、そういう話になる。

で、そういう議論をしているときに自分が何を言いたいのか・相手が何を言っているのかがわからなくなったり、自分には意見やふさわしい言葉たちがさほどないことに気づく。
それはすなわち「コミュ障」の状態に陥ったということである。

こういう状態に陥るのは、自分の中に世界がないか、相手の世界の理解が不十分か、世界があってもその強度が低いからだ。
すなわち世界のやりとり、意思疎通が全くできていない、もしくはこだわりがないからだ。

もちろん、神羅万象、すべての事象について理解し、そしてこだわりを持たなければならないわけではないと思う。
しかし、「これだけは」というものを持ち合わせていないと、あなたの世界から核(core)は失われる。
世界のような見た目をした輪郭が、空っぽの状態でそこにあるだけになる。

普段の何でもないワイワイとしたやり取りというのは、別段己の中にある世界をむき出しにすることはないから、当然思想の強度なんて問われない。
そして自分の中にゆずれない世界があるかどうかなんて、正直言って「面倒くさい」話題のひとつだ。

しかし己だけの強固な世界を持たねば、世界のやり取りが始まった瞬間にその人間の薄さが露呈する。
「こいつ、どうでもいいときはにぎやかにワイワイやるけど、何にも考えちゃいねえな」
それでおしまい。「肝心な時にはいつでもコミュ障になるんですね」と認定されて終わりだ。

わたしたちは誰しも自分だけの世界を持たねばならない。
それも「おこだわり」のある強固な世界だ。
そのためにひとは学びつづけるのだとおもう。他者を理解する見識を得るのみならず、己の世界を確固たるものにする材料を提供してくれる。

学ぶことは、コミュニケーションの礎なのだと思う。

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