私たちは「不完全な死体」として生きている

昭和時代に活躍した作家で寺山修司というひとがいる。

実際にしゃべっている姿なんかを見ると強烈ななまりを全く意に介さずぼそぼそと言葉を紡ぎ続ける姿が大変印象的なのだが、寺山修司はとかく原稿用紙の上につづる言葉が極めて鮮烈で、そして人間の価値観や思考回路みたいなものをクルッと180度ひっくり返してくるようなところがある。

私もいっとき寺山の詩や文章に傾倒した時期があったが、中でも今なお鮮烈に印象に残っているのがこの文章である。

ぼくは不完全な死体として生まれ 何十年かゝって 完全な死体となるのである

おぎゃあと生まれたときが「不完全な死体」である――私たちは死を完成させるために一生懸命生きているということになる。
はて、では死ぬことを完成させるとは何なのだろうと考えると、理想の死の実現こそが死の完成であるように思う。

どんな風に死ぬことが理想の死の実現なのか。当然苦しまずに死にたいだろうし、かたや「北斗の拳」のラオウよろしくわが生涯に一片の悔いなしという状態で死にたいと思う。

苦しまずに死ぬのは正直運みたいなところもあるけれども、後者の後悔なき人生という意味でいえば、夢を形にしたほうがいいしなるたけ幸せな時間が多いほうがいいし、やりたいようにやってみる人生のほうがいいのだろう。
…と考えてみると、結構生き方を見直すきっかけにもなることに気づいたりする。

死をスタートラインにしないと生まれたときが「不完全な死体」なんて発想は出てこようもない。
そして死をスタートラインにするなんてなんとまあ陰気で演技が悪いと思われてしまうのだろうが、私はまったく真逆だと思っている。

どういうことかというと、普通の人というのは生きることをスタートラインにしているので生まれたときから子供のころなんかは一番元気で、だんだんと生きる力(エネルギーとか体力とか行動力とかいろんなもの)を失って死ぬ、みたいな着想になりがちである。
要は人生が終わりに向かう中で「人生は消化試合」感が増してくるのだ。

死ぬことをスタートにすると、私たちは刻一刻と完成に向かっているのであり、決して衰退しているわけではないのだ。満を持して死体として完成する瞬間が訪れるその時に、わりあい前向きになれるのではあるまいか、という気がする。

時間とともに必然的に訪れる衰えと世界という舞台からの退場が約束されている人生より、衰えなどを享受しながらも彫刻のように己を完成品として磨き上げる人生のほうが、私には美しく思えてならないのである。

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