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減り続ける「何も考えない」日々

日経の「半歩遅れの読書術」というコラムに、哲学者の野矢茂樹東大名誉教授が寄稿していたことがあった。
2020年1月18日付のタイトルは「人生は阿房列車のようなもの」だ。


「 阿房列車とは用もないのに列車に乗ること。いや、用などあってはならぬのであって、観光もしなければ見聞も広めない。『しかし用事がないと云う、そのいい境涯は片道しか味わえない。なぜと云うに、行く時は用事はないけれど、向うへ著いたら、著きっ放しと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない』。というくらいのものなのである。 」

「 考えてみれば人生も阿房列車のようなものではないか。何のために生きるのか、目的などありはしない。いや、阿房列車よりももっとピュアだろう。なにせ帰ってくる必要がない。逝きっぱなしなのだから。 」


とある。

目的もなく日々をただ前に進めていく感覚。大学の頃を思い返してみると、結構ぼうっとしていることが多かったように思う。

大学の広場で座ってコーヒー牛乳を飲んでいたりしたこともしばしばだ。大学の時、至上の時間だった。空をただ眺めて、一日が終わるだけ。これほど精神が満ち足りることはなかった。

ほか、図書館で虚ろな意識のまま座ってたり、久石譲の”Silent love”を聞きながら海をただ眺めたりと大学のころの私は実に何も考えていなかった。一日のなかに意識を失う瞬間とでも言おうか、何も考えずにいる瞬間―虚無に至っているのか―が、沢山存在していた。
理性による行為のコントロールではなく、感覚、情動に近いもので行為がコントロールされる時間が多かったのである。


しかし、社会人になると、途端にそういう時間が少なくなってしまう。


ただ夏の空を見上げて、飛行機雲を探すとき。
冬の空を見上げて、空の色は青ばかりではなく灰色にもなるのだと知るとき。
何も考えずに道に落ちた小さな石を蹴って歩くとき。
学校の窓から外を見つめるとき。
時計の針の音に耳が傾いてしまうとき。
そのいずれの瞬間にも、思考は存在しない。

「なぜ見たの?」
「なぜやるの?」

そう理由を問うた瞬間から思考は始まる。
その瞬間に、行為は意図されたものになる。

理由を問わずに「ただなんとなくそうしている」という状態、その時間の持つ尊さを、社会人になって忘れてしまうのではあるまいか。
一日一日がアッという間に過ぎていくようになっていく中で、「何となく」が占める時間が少なくなっていることを痛感している。

「暇だし何をしようか」と思ったとき、すでにわたしは「何となく」の領域から逸脱してしまっている。言葉を越えた世界に身を投じる瞬間を”意図して”作ったとき、私たちは思考と言葉にとらわれているのだ。
――もっと阿房にならねばならないのかもしれない。

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