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仕事が面倒くさいのは当たり前

「仕事が面倒くさい」というのは当たり前なのではなかろうか、という風に最近思うようになった。

世の中にはいろんな仕事があるが、その本質はいってしまえば「アウトソーシング」にあるのではないかと思う。
つまり、「自分でやるのが面倒くさいから誰かやってほしい」と思うものが仕事になっているということだ。

商社で考えてみればわかりやすい。
商社がしている仕事を簡単に言うと、間を取り持ってマージンを受け取る仕事である。

例えば、ある場所で石油を掘り当てたおじさんがいたとしよう。
おじさんが車に乗るにしても、あふれ出る石油が庭でジャブジャブなっていても仕方ないので、どこかに売りたいと思う。
しかしおじさんには人脈も売り方のノウハウもなく、売るために必要な何もかもがない。
こうなったときに商社の出番である。石油元売会社などとおじさんをつないで、ビジネスが成り立つようなお手伝いをする。
こうして、世の中の多くの人たちが車やバイクのガソリンを入れられるようになるわけだ。

と、この例で考えてみたときに、おじさん側の立場で考えたら自分一人で人脈を構築して石油の売り先を探すのなど面倒くさいのである。
そして、需要者である我々の立場から考えてみると、ガソリンがほしいと思ったそのときに原油を精製してくれる事業者やうまいことガソリンスタンドに運んでくれる人などをいちいち探していてはらちがあかない。

このような石油を巡る一連の面倒くさいことを、生産者と需要者がアウトソーシングする先が商社であり、それがすなわち仕事なのである。


スーパーマーケットもわかりやすい。
ニンジンがほしいと思ったときにニンジンを持っている人を探すか、自分で一からニンジンを育てないといけない。
考えるまでもなく、面倒くさい。


あらゆる仕事が、その内側に生産者なり需要者の「面倒くさい」という思いを内包している。
面倒くさいことをアウトソーシングしているのが仕事なのだから、仕事が面倒くさいのは至極当然なのである。


となると、「仕事がだるい」とか「面倒くさい」という感情は非常に日常的なものだということがわかる。「冬は寒い」くらい当たり前の事実なのである。

それをどうにかせんと、好きな仕事をするもよし、仕事はそこそこに趣味に没頭するも良し、己の捉え方を変えるも良し、「人生こんなもん」と受け入れるも良し…選択肢は様々だ。

人生の大半を占めることになる仕事とは、もしかしたら「面倒くささ」とせめぎあい続ける営みなのかもしれない。

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