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22歳のとき書いた青々とした文章が出てきた
私の社会人デビューは2016年までさかのぼるのだが、当時書いていた文章がそのまま出てきた。
意図せず銀行員となり、不満たらたらだったころの拙文である。少し長いが、引用してみよう。
社会人として働くなかで、社会や組織の持つ暴力性を強く感じた。
社会・組織という「画一的な人間生産工場」に入ってしまったという感覚だ。心境たるや、焼かれるのを待つたい焼きの生地のようなものである。
しかも私は別にたい焼きになりたくないのである。
そもそも、仕事を始めるやいなやこんな下手な文章をつづり始めたのは、日常に何かを見つけたり感じたりしたときに刺戟を受けて書くという作業をしなければ、自分のもともと持ち合わせている感性らしきものや視点らしきものがカチコチに固まってしまうのではなかろうかと思ったからなのだ。
しかし、そうはいっても、暴力は論理や思いを超える。「どうにかせねば」という気概だけで何とかなっているような状況だが、少しずつ自分がたい焼きらしい形になりつつあることを知覚している。言うなれば「色鮮やかな自分の目の前が少しずつ色あせてきた」と表現できそうだ。
小さいころは、世の中のあらゆるものがなんでも面白かった。
水たまりがあること、ビルが建っていること、電車が走ること、石が自ら動かないこと、カセットテープから音楽が聴けること―今になってしまえば当たり前でしょという一言に集約されてしまう。
でもそれらが不思議なのだ――と思える感性は、私にはもうない。
「あっ」が「ふーん」に変わっていく過程が、成長なのであろうか。
さきほどのたい焼きのたとえでいえば、確かにたい焼きは必要ではあっても、世の中にはどら焼きやおやきや饅頭を食べたい人もいるわけで、その点の多様性は担保されて然るべきだということだ。私個人としては上述したとおり、人間がたい焼きになっていくとその感性みたいな部分も一緒にギュッと鋳型にはめられていくのではあるまいか、という強烈な危機感があり、事実そうなっているからたい焼きが嫌なのだ(まあ、ダメでもクロワッサンたい焼きくらいの個性は残したいと思う)。
こうなってくると不本意な仕事に就くと大体ダメになるもので「転職」の二文字が頭をよぎる。その際に大事なのは期日への意識だ。大学までの教育の中に身を置いている時期は、期日が否応なしに決められる。中学生であれば「三年生になったときに受験がありますよ」とか、大学であれば「三年生から四年生くらいにかけて就活をしますよ」とかだ。それに合わせて勉強のスケジュールなどを作り上げることになる。つまり、自分で何もしていなくてしなくてはならないタスクが勝手にやってくるシステムが存在していて、そのタスクの成功を生むべく、システムが構築されているだけなのである。
社会人になるとそうではない。マイルストーンを自分で置いていくことが大切だ。「いつやるのか」「なにをするのか」「なぜやるのか」「どのようにやるのか」といったものを、勝手に決めていく。資格試験も昇進も営業も転職もすべてがそうだ。誰も決めてくれない。
そう、自由なのだ。
しかしどうして、人間は自由の中で自由に動くという事を苦手とするところがある。『自由からの逃走』だ。その逃走の背景には、いつも組織が存在している。
組織の中で人は安易に自由から逃走してしまう。
ひとえにその方が楽だからである。ひとは思考を止めるほうが楽なのだ。言われたことをやれば楽だからである。考える葦であり続けることは苦難の道なのである。
会社の中でも思考を止めて、自由から逃走している人間はいくらでもいる。営業できつい時もまあそれなりにあるわけだが、その一方でそれっぽい賃金がもらえ、一応居場所があるという環境の中にあって、安定した状態にあるほうがいいと考える人もいる。
だから思考を止めた方が、自由から逃げる方が、資本主義社会の中にあってはよっぽど合理的なのかもしれない。
なんか「もがいていたんだな…」ということを痛切に感じる文章である。
しかし、「会社の中でも思考を止めて、自由から逃走している人間はいくらでもいる」という一文は、手前味噌ながら今の私にとっては重い一文だ。
一体、自分自身は何をすべく生きるのか?6年半の時を経て、同じ疑問にぶつかる自分がいる。
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