時を経てわかること②~単純な言葉の重みについて~
言葉の裏にあるもの、という意味でいうと、切り口を変えるとこんな話もある。
「単純な言葉」の重みがわかる、ということだ。
シンプルだが大事な言葉というものがあるが、小さなころは残酷なことに、聞いたところで何も感じなかった。
たとえば小学校のころ「夢を持て」「つらいときは苦しいほうを選べ」「努力が大事」などと言われ続けてきた。正直、当時は「またその話かよ」と思っていた。
しかし時間を経てみると、その言葉があまりにも重いのだ。
「夢を持て」と言われて、本当に夢を持てているか?
「つらいときは苦しいほうを選べ」と言われて、本当に苦しいほうを選べているか?
「努力が大事」と言われて、本当に日々努力を積み重ねられているか?
いずれも、簡単には首肯できない。
これらはその言葉の本当の意味みたいなもの、本当の重みみたいなものを、人生を通じて感じ取れたからこそ、その言葉の後ろ側に伸びている長い影が私たちには見えるようになったのだと思う。
実家で懐かしくも小学校の卒業文集を見ていたとき、こんな言葉に出会った。
一番お世話になった、小学4年生の時の担任の先生のメッセージだ。
文集をもらった当時は「まあそうだよな」くらいで、この言葉の意味はよくわからなかった。
でも、まさに大人になったいまこの文章を読むと、なんだか泣きそうになるのである。
あの時の優しさ、素直さ、柔らかさ…日々多忙な中でその手触りを忘れかけたときにふとこの言葉に出会うと、なんて無自覚に日々を生きてしまっているのだろう――と強く日々を悔やむのである。
先生の言葉の後ろにあって、そして先生自身が過ごしていたであろう「大人たちの日々」の姿をいま見せつけられたときにはじめて、先生の言葉の重みがわかる。
人生を過ごすことはこういう言葉の意味をちゃんと知ることでもある。
こういう深みのわからない人生よりわかる人生がいいから、私は行間を読める人でありたいし、言葉の裏側にある深さがわかるひとでありたい。
逆に行間を読めないというのは実に愚かで、そして何かを見失いかねない悲哀に満ちている、と強く感じてしまうのである。
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