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共にするということ

共にするということが、非常に大切だと最近感じるようになった。

2021年の東京五輪は無観客となった。人生に一度あるかないかの五輪本番が無観客というのはさみしいものだが、昨今の状況からすれば致し方ない。スポーツを一緒に見るということは、興奮や感動を共にする経験だ。


私自身結婚してからよくわかったが、結婚するということは、人生を共にする、という経験だ。
人生に起きた、あらゆる出来事を共にする。日常を共にするということであり、時には笑いを共にするということでもある。

葬式も同じだ。亡くなった人に何らかの縁を持つ人たちによって、悲しみを共にする出来事だ。この過程をへて、人の心にある悲しみという傷は、少しずつ癒えていく。

私自身、むかしむかし水泳をやめたときに思ったことがある。それは、自分がいま机に向かって勉強をしているとき、友人たちはきょうもあの小さなプールに飛び込んでいて、自分はもうすでに、彼らと同じ時間を共にはしていないのだということだ。

最近のSNSでは、いろんなハッシュタグが流行している。
その中には特定の団体が広報の目的で使うものも多くあるが、こうしたハッシュタグの流行は、「何かを共にできない」という苦しみの発現である。
これでもかというほど、たくさんの共感を押し付ける投稿にあふれていて、それがやむことはない。
別段否定をする気はないが、どこまで行っても結局満たされずに乾き続けてしまうような呪いのように見えるときがある。

そんな風に感じるのは、「デジタルだからだめだ」「対面だとわかる」とかそういうわけではない。

「共にする」ということを強いられているかどうかという違いにあるのだろうと思う。

ツイッターなどのことばをみていると、時に押しつけがましいものが散見される。

でも、本来「共にする」というのはこちらがやらされるものでもない。やっていたらいつの間にか近くに誰かがいるという状態なはずだ。

スポーツ観戦だって誰も「隣の人に感動をわかってほしい」などと思っている人はいない。自分が好きで感動するから勝手に周りの人と同調して、結果的に共にすることができるだけだ。
誰かに対して依存して感情を求めるのではなく、自分自身がたしかな意志をもって生きる中で、気づいたら近くにいる誰かとその空間・感情を共にする経験ができる。

そういう同じこころをもつひとをひとりでも多く作れるかどうかが、人生の価値を決めたりするのかも―—そう思いが至るのは、いつもひとりのときだったりする。

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