「平和です」ってわざわざ言わないといけない現状は平和ではない
岡田英弘さんが著した「歴史とは何か」という本がある。
要は、客観的で中立的な歴史などなく、歴史とは国にとっての武器にもなるような、書く人の価値観とか意志が存分に反映されたものなのだ、といったようなことが書かれている。
その本の中には、中国の歴史の本質は「正統」という観念の存在にある、という指摘がある。
これはつまり、建国以来ずっと、現在の中国らへんの地域をその時代で天命を受けた一人の皇帝が治め続けている、という発想のようだ。
まあ、考えるまでもないが、今の中国はかつて元に支配されたり、イギリスにぼこぼこにされたことなんかがあったりして、その歴史の中で一度として断絶なく、天命を受けた皇帝が治め続けている、なんてのはうそだということは明らかなわけだ。
でも、中国人の歴史観は「いまの中国のトップこそ、先祖代々から脈々と続く皇帝の系譜を受け継ぐ正しいものだ」ということになっている。
ここでよくわかるのは、「正統だぞ!」と言っている人たちの正しさを疑った方がいいということだ。わざわざ言葉にするということは、それだけ怪しいのである。
ついでに、イスラム文明についての記述がある。
イスラム文明は基本的には歴史がない、と説明がある。
というのも、歴史とは過去から現在、未来と因果関係をもって続いているものと規定されるが、イスラム教の考え方では因果もくそもなく、そこには神様の創造だけがある、という発想をするためなのだという。
だから、一人一人の意志とか、考え方とかではなく、神様からの教えをしっかりと守ること、神様の意志を体現することに価値が置かれる。
その象徴として、「イン・シャー・アッラー」という言葉を挙げる。これは「神が望むならば」という意味で、よく約束なんかをしたときに決まって使われる言葉だという。
要は、自分が約束を守るとか守らないとかそういう話ではなく、神様の意志が何よりも大事だということであり、「神が望めば行くし、望まなきゃ行けないよ」ということなのだという。
「なるほどなあ」と思っていた時、一冊の本に出会った。
飯山陽さんの「イスラム教の論理」という本だ。
飯山さんのことはもともとNewsweekで知ったが、主張の方向性がこれまで目にしてきたイスラム教関連の学者とは違う。そこで氏の本を手に取ってみることにしたのである。
同書は心底大雑把に言うと、
①「イスラム国」の言っていることはイスラム教の教えに極めて忠実なものであって、別にイスラム教は平和の宗教でもなんでもない
②多くのイスラム教国家がイスラム国みたいにならなかったのは国家体制の安定のために異教徒を殺したりする必要がなかっただけ
③世界中でイスラム教を信じれば平和になるじゃん、と考えているという点ではイスラム国の人たちと同じ
といった話である。
これも中国の「正統」をめぐる主張と同じで、そこらへんの学者とか(自分を含めた)メディアの連中が「イスラム教は平和の宗教だ!」と言っていることに、違和感を覚え、そして足を止めるべきなのだ。
「平和だ」と、なぜわざわざ言わなくてはならないのだろうかを考える必要がある。
飯山氏も以下のように主張している。
誰しも、自分が嫌な気持ちになる言葉を聞きたいとは思わないものだ。
それでも、事実を丹念に見ていくと、呆れるような現実や、グロテスクな結論が出てくるのが、不思議なことに世の常なのだ。だからこそ、夢を見た人は小説を書く。
気持ちいい言葉の湯につかって、見たくないものには目をつぶり、見たいものだけを見るというのは、一個人の人生だけを考えればある程度は幸せだろう。
しかしそれに意味があるとは、私には思えない。国をよくしていくことを本気で志向するなら、そんな精神性は毒にしかならないと思う。
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