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久しぶりに会った女性にどぎまぎするやつ

社会人になりたてのときくらいだったか、昔一緒に水泳をやっていた女の子に約10年ぶりに偶然再会したことがあった。

驚きのあまり私のコミュニケーション能力は一気に下がってしまい、「えー!」とか「うわー!」とか「うおー!」とか意味のない言葉を発するばかりでついに意味のあるコミュニケーションが出来なかったが、久々の邂逅ほど喜ばしいものはない。



小さい頃の「久しぶり」というものなんてたかだか2~3年くらいのもので、たいした変化などないものだ。

しかしいざ20歳代になると「久しぶり」の期間は非常に長くなる。

成人式の時にこのことを猛烈に感じたのだが、成人式に出会う友人は「幼稚園以来」とか、「小学校以来」の友人が多い。
年数にすれば十何年ぶりになるわけだ。

また、男子は幼い頃の面影もあるし、顔もあまり変わりはしない。私もそうだ。

かたや女性は(化粧を覚えるということもあるのだろうが)顔から雰囲気からいろいろと変わってしまう。
美しくなるから結果的にそれでいいのだが、しかしこうなると子供のころ「久しぶり」と言っていたときとは話が違う。

すっかり、ふたりの間にあった距離感がよく分からなくなってしまう。
ともすると「別の人」と喋っているような感覚すらしてくる。

長い時間を経て再会したとき、その時間分だけ積み重なった何かが、その人の中からあふれている。

大人になるなかで身のこなしも知れば、笑顔一つ見ても幼いころの屈託のない笑顔とは違う。営業スマイルもあれば愛想笑いもある。そういう表情からうかがい知る本音が一瞬見えると、今までにはない距離を感じてしまったりする。

一方で変わらない面もある。
声や性格のほか、けらけらと笑って目を細めたときの顔はそのままだ。慣れ親しんだ側面がその人のちょっとしたところに現れている。その人がその人であるということを証明する「証拠」といってもいい。

時間の中で、変わっていくものと変わらないものとがある。
二度と会うことも無いまま、ひとりでに生涯を終えることになる友人はたくさんいる。
出会うこともなければ、変化したのかどうかも感じられないまま、私たちはその生涯を終える。

「ともだち100人できるかな」なんて歌があったが、その100人のうち何人が大人になってから繋がりを持てるのだろう。
もっといえば、「偶然会えた」なんてことがどのくらいあるのだろうか?


過去を思い出しながら、大層きれいになった彼女のことを見ていた。
そして時間がきて、
「またね」
と告げて彼女は電車をおりていった。

その「また」はいつ来るのだろう――彼女のいなくなった電車の扉の窓から遠くを眺めると、変わらない故郷の町並みがそこにはあった。

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