見出し画像

開眼した達磨は何を見るか

少しずつ肌寒くなってくると、決まって冬にやってくる振り袖を着た女性たち、板につかないスーツを着る男性たちを街で見かけるあの卒業式の日を思う。
6年前にはあの振り袖姿を、彼女たちと同じ立場で見ていたのだと思うと、呆気なく時間が過ぎたことを認識させられる。

卒業というのは学校にいる人間にしか許されない特権的なものでもある。
会社に入ったら卒業とは呼ばず、退職という二文字に変貌する。

卒業には、何とも言えない感慨が付きまとう。
それも、高校までの卒業は特にだ。
大学はわりあい自由な感じもあって、こうワイワイと楽しく卒業式を迎えるもので、寧ろメインはその後の謝恩会やら二次会やらそういうイベントである。
あの時の何とも言えない感情というのは、今になって思えば本当に尊い。

高校までとなると、割と卒業式から最後のホームルームに臨む流れが一般的だ。
大体最後のホームルームで先生がちょっといい話をしてしんみりとした気持ちで学校を去る―というもので、そのせいかどうにもこうにも強い感慨を覚えるのだ。

そして、粗末な黒いスーツに身を包んだ若者たちにも出くわすのもこの時期だ。
近くで見れば生地のなんとも言えない安っぽさに目がいき、「ああ、就活の時期か」と思いが至る。

社会人として6年目を終えようとしているいま、改めて黒いスーツ姿と振り袖姿を見ると、その表情がどこかあどけないことに気づく。
もちろんこのあどけなさは童顔でプリティーだなどと言っているわけではなく、寧ろ自己の精神に芯の入っていないような、そしてすぐに見透かされる仮面をまとっているあどけなさである。

達磨に目を書き入れていない状態―これが表現としては一番近いかもしれない。

達磨に目を入れるのはまさしく開眼であり、その本質は魂を入れることである。だから上述した若者―私もまだ辛うじて若いのだが―は、まだ「開眼」していないということになる。

だからこそ、無邪気に夢を見ることができる。
「卒業したらバリバリのキャリアウーマンとして頑張る」
「将来は社長になりたい」
「独立して会社を作ります」
「好きに生きて行こう」
ーー若者は様々な夢を語るものだが、若さとはそういうものだ。ファンタジーをつくり、その中に身を置こうとする営みこそ、夢を見ることなのかもしれない。

しかしそんな夢は、現実との相克の中で次第にみずみずしさをなくし、乾き、脆く崩れやすくなる。
正義と熱意のなかで生きてきた若い時期は時間とともに過ぎ去り、そうして人はつまらないものになっていく。

そうしてある瞬間、夢はボロボロの破片になったりして、人は自分の夢の輪郭を忘れてしまう。

夢を見ることは悪いことではないはずだが、どこかでシニカルに、夢を見ることを馬鹿馬鹿しいとする風潮もなくはない。「現実を見ろ」と一蹴されてしまうのである。

そんな風に醒めきっている世界を、若者たちは「開眼」したときに見つめることになるのだろうか。その世界をいま作っているのは、昔同じように「開眼」したはずの"かつての若者たち"ではなかったか。

そして私がそのような世界を作っている一人で在りたくはないわけで、強烈な哲学と屈強な信念、そしてしなやかな感性を大切にしたいが、どうにもそういうものは「夢見がち」と捨象される運命にあるらしい。

目を入れた達磨が見るものは、目の炭が薄くなって汚濁した灰色になった他の達磨たちなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?