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他人のことなどよくわからないものである

「共感」「他者理解」は、言うまでもなく大切なものだ。
つらいなあと思う人に「つらいよね、そうだよね」と思いやり言葉をかけること、そして言葉を発せない人たちの状況を慮って言葉をこちら側が紡いであげること。
人間同士が平和に生きるうえで極めて重要なことだ。

ただ、そうした理解というのは、往々にして表面的なものになりがちである。
というのも、経験したことがないことだと、そもそも理解ができないのである。
「そうですよね」と表面的には言えても、理解ができていないので、本当の意味での共感もできない。

人を喪ったことのないひとは、大切な人を喪ったひとを前にすると、何を言えばいいかわからなくなる。
適当に何か言っても、「お前に私の気持ちの何がわかる」と言われるだろう。

最近はやりのLGBTというものがある。レズとかゲイとか、性的マイノリティといわれるひとたちの総称だ。
こういう人たちの存在にだいぶおおらかになったとはおもうが、真にLGBTの人たちの気持ちを理解しているひとはほとんどいない。
というのも、多くの人はLGBTではないからだ。
同性愛者や両性愛者の持つ、本当の気持ちや状況を理解できるはずもない。
三島由紀夫の「仮面の告白」を読んでも、わからないものはわからない。「そういう人がいるんだな」としか思わないのがヘテロセクシュアルの関の山だ。
もっと踏み込んで言えば、LGBTのひとたちもまた、性愛を傾ける対象として異性”だけ”しか好きになれないマジョリティの気持ちを理解できてはいないという一面もある。

男女でも話は同じだ。
男性の気持ちが女性にわかるわけはないし、女性の気持ちも男性にはわからない。
出産や生理の大変さ、つらさを男性は理解できないのだ。
同時に、金玉を蹴り上げられたときの痛みを、女性が知ることもない(まあ知る必要もないが)。

他者理解や共感の話になったとき、往々にして社会的に弱い立場の方からは「理解をしてほしい」と要請があり、それを強いられる。
一方で社会的に強い立場の人が置かれた状況に対する理解については放置されている。
要は、共感と他者理解において、弱者と強者の関係性は非対称なのである。

弱い立場の方が、いろんな人から歩み寄ってもらえて、そして「うんうん、かわいそうだね」と理解してもらえる。
そんな風に認められ続けていれば、確かに自分がありのままで存在していいという風に思える。
しかし、あなたの状況や感情を100%理解している人は残念ながら存在しないし、そこまで興味がないというのが多くの人にとっての実態である。

私は、自分のことが分かってもらえる、なんて期待を持たない方がいいと思っている。
そもそもわかってもらえないという前提で、自分はこういう考え・感性であることをちゃんと認識しておれば、それでいいのではないか。
たまに本当の意味でわかる人がいれば、そういう人とは親交を深めればいいわけで、いくら説明してもわからない人は一定数いるし、そういうひとには表向き適当にやり過ごしていればいいのだ。いやでも時間は少しずつ過ぎていく。
ありのままの自分のすべてを、あまねく理解してもらえるなどと期待しないほうがいい。社会に生きるのなら、何重にも仮面を被って生きていくのが大人である。

自分に関する理解を他者に強く求める「共感の乞食」が増えていったとき、社会全体が少しずつ歪んでいくような、そんな気がしている。

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